人は誰しも、自分の選択が人生をどう形づくるのかと考えるものだ。しかし私の場合は、自分で何かを選択する前、1歳だった時に全てが変わった。1986年4月26日を境に、私の人生、家族、未来は永遠に変わったのだ。これ以降、私は「チョルノービリ(チェルノブイリ)の子供」(Child of Chernobyl)と呼ばれる存在になった。

当時赤ちゃんだった私は、両親とウクライナ北部のプリピャチで暮らしていた。父コンスタンチン・ルデャが近くのチョルノービリ原子力発電所で働いていたのだ。事故が起きた時、2号炉の上級原子炉制御技師として勤務に就いていた父は、おそらく、その日の未明に起きたことの重大性を最初に理解した1人だった。

しかし父も、その事故が娘である私の人生、そして何百万人もの人々の人生を一変させるとはまだ知る由もなかった。

全てが大混乱に陥った。原発事故の1日余り後、私は当時24歳だった母と、祖父母が住むハルキウ(ハリコフ)に避難した。生存者たちは恐怖のどん底に突き落とされた。母の話によると、医師たちは放射線被曝の治療経験がなく、私たちを診察したがらなかったという。一方、父は現地にとどまり仕事を続けた。

避難者の多くは数日で家に帰れると思っていたが、そうはならなかった。母と私はハルキウからさらにキーウ(キエフ)へ移った。

血液検査や健康観察を定期的に受けてはいたものの、子供だった私は状況の重大さを完全には理解できていなかった。学校には避難者世帯の子供も多く、私たちの周辺では「チョルノービリの子供」であることはそれほど特異なことではなかった。

実際、子供たちは夏休みになると、ドイツやフランスに滞在する一家に誘われて一緒に夏を過ごすこともよくあった。それは私にとってはとても貴重な経験であり、ドイツ語を学ぶきっかけにもなった。

父は、その後も長くチョルノービリで働き続けた。やがて父は当局の許可を得て、私たちがアパートに置いたままにしてきた貴重品を取りに戻ることができた。ただし、立入禁止区域の外へ持ち出す前には放射線検査が要求された。

後に、父は電離放射線が環境に及ぼす影響を科学的に研究するための研究所を設立し、ドイツ、フランス、日本、アメリカの著名な科学者たちと連携して研究に取り組んだ。この研究活動は、ずっと父の人生の大きな一部だった。

父は、急性放射線障害で入院していた元同僚たちをよく見舞っていた。しかし残念ながら、その多くはもうこの世にいない。2019年の米HBOの実話ドラマ『チェルノブイリ』やさまざまなドキュメンタリー作品で有名になった人の多くは、父の知り合いだった。

私はチョルノービリから避難した... 筆者のTikiTok/@alina_rudyaより