コラム

雇用が回復しても賃金が上がらない理由

2017年08月17日(木)15時30分

そのパズルを解くためには、おそらくは「労働市場の構造変化」に注目しなければならない。というのは、上述のように、日本の雇用制度は、とりわけ1997年の経済危機を契機として大きく変わったからである。

端的にいえば、2%台後半という現在の失業率は、同水準であった1990年代前半とは、その内実が大きく異なる。日本の就業者に占める非正規雇用の比率は、近年ようやく低下しつつあるとはいえ、2016年時点で40%弱にまで至っていた。既述のように、その比率は1990年代前半にはせいぜい20%程度であった。同じ2.8%の失業率であっても、雇用中の非正規比率が40%か20%かでは大きな相違がある。というのは、1990年代前半には、日本企業は全体として、現在よりも「より多くの高賃金な雇用」を提供していたからである。

ごく単純に言えば、企業の労働需要は、賃金が高ければ減り、低ければ増える。それは、より低賃金である非正規雇用の比率が大きくなれば、労働需要はそれだけ増え、失業率はその分だけ低下して当然であることを意味する。

仮に現在の日本の非正規雇用比率が40%ではなく20%であったとすれば、日本の失業率は必ず現状よりも高くなっていたはずである。というのは、企業はその場合、正規雇用の高賃金に見合うだけの限界生産性を持つ限られた労働者しか雇用しないはずだからである。

これをマクロ経済学の枠組みから言えば、「労働市場における構造的失業率が低下した」ということになる。構造的失業率は一般に、政府や労働組合などの労働市場の規制拡大によって上昇する。しかし日本では、労働市場の規制緩和などによって、企業は非正規の低賃金労働をより「柔軟に」利用できるようになった。そう考えると、日本の構造的失業率は、従来の想定とは異なり、上昇するよりも低下した可能性の方が高いのである。

拡張的マクロ政策からの「出口」を焦ってはならない

つまり、失業率や有効求人倍率に関する現在の数字は、旧来のそれと比較して、低賃金の非正規雇用が拡大した分だけ「かさ上げ」されたものと考えなくてはならない。その点を差し引くと、実際の雇用状況は、実は数字ほどには改善されてはいないのである。未だに賃金の引き上げが十分に進展していないのは、おそらくそのためである。

確かに、非正規雇用では賃金上昇が生じ始めたが、それは「賃金が正規よりも大幅に安い」からにすぎない。本当に人手不足なら、企業は非正規のみならず正規においても、雇用の確保や流出阻止のために賃金を引き上げ始めるはずである。日本経済は、その状況に至ってはじめて、本当の意味での完全雇用に到達したといえる。

このことは、今後のマクロ経済政策運営に対しても、大きな示唆を持つ。雇用状況の改善が実態としては未だに不十分であるとすれば、政府と日銀はこれまでにも増して、「企業が市場の圧力によって賃上げを強いられる」ようなマクロ経済状況を一刻も早く実現すべく政策運営を行わなければならない。

最悪なのは、政府や日銀が、失業率や有効求人倍率の数字上の改善に惑わされて、財政拡張や金融緩和からの先走った「出口」を模索し始めることである。拡張的マクロ政策の転換は、賃金や物価の明確な上昇を確認してから行えばよく、それで問題は何もない。むしろ、マクロ緊縮政策への早まった転換こそが、日本に長期デフレ不況をもたらした本質的な原因であったことを忘れてはならないのである。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

金融政策の具体的手法、日銀に委ねられるべき=高市首

ワールド

最近の長期金利、「やや速いスピード」で上昇=植田日

ビジネス

米当局、エヌビディア製半導体密輸の疑いで中国人2人

ワールド

一国の経済財政担う者として金利や為替は当然注視=高
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ジョン・レノン暗殺の真実
特集:ジョン・レノン暗殺の真実
2025年12月16日号(12/ 9発売)

45年前、「20世紀のアイコン」に銃弾を浴びせた男が日本人ジャーナリストに刑務所で語った動機とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だから日本では解決が遠い
  • 2
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価に与える影響と、サンリオ自社株買いの狙い
  • 3
    キャサリン妃を睨む「嫉妬の目」の主はメーガン妃...かつて偶然、撮影されていた「緊張の瞬間」
  • 4
    ホテルの部屋に残っていた「嫌すぎる行為」の証拠...…
  • 5
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」…
  • 6
    人生の忙しさの9割はムダ...ひろゆきが語る「休む勇…
  • 7
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺…
  • 8
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 9
    中国の著名エコノミストが警告、過度の景気刺激が「…
  • 10
    「1匹いたら数千匹近くに...」飲もうとしたコップの…
  • 1
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 2
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価に与える影響と、サンリオ自社株買いの狙い
  • 3
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だから日本では解決が遠い
  • 4
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」…
  • 5
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺…
  • 6
    ホテルの部屋に残っていた「嫌すぎる行為」の証拠...…
  • 7
    キャサリン妃を睨む「嫉妬の目」の主はメーガン妃...…
  • 8
    戦争中に青年期を過ごした世代の男性は、終戦時56%…
  • 9
    人生の忙しさの9割はムダ...ひろゆきが語る「休む勇…
  • 10
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させ…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 4
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 5
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 6
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 7
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 8
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story