中東やインドの女たちの英知
その彼女が、子供が転んで脳に障害が出たのでは、と心配して病院に行ったときも、感心した。一人で連れていくのは不安なのでついてきてくれ、という。レントゲン写真なんか読めないし、医学知識も何もないよ、というと、それでもいいからというので、ムスリム同胞団が経営している近所の病院に行った。安くて夜も開業していて、貧しい人たちには評判がいい。
で、同行したところで筆者は何も役に立たなかったのだが、彼女の目論見は、こうだ。外国人の、しかも学問を生業にしている高学歴の女性が診断を見張っていれば、医者も患者にへんなことはできないに違いない、と。筆者は恰好の「脅し」の材料にされたのだ。礼拝も断食もちゃんとやる、普通の信仰厚いイスラーム教徒だったが、イスラームを冠した病院だからといって医者が篤信家だとは限らないと、彼女は見抜いていた。
退職する先輩学者が伝えたかったことは、途上国の健気な無知の美しさではない。西洋的教育を受けていなくても人は決して知がないわけではない、ということだ。そして、彼女たちの貧困を教育の欠如や西欧的常識の不足に帰して、それを施すべきとする、「人道」とか「白人の義務」とかに議論を集約させてしまうと、とても素敵な彼女たちの英知が見えなくなってしまうということだ。
もちろん、教育なんか与えないほうがいいとか、女の子は無知なほうが素直でいいとかいう話ではない。ターリバーンに殺害されそうになったマララさんに、ターリバーンの幹部が、「インド亜大陸は西欧教育に冒される前にはもっと英知に富んでいた」と主張して、だから西欧型教育のプロパガンダを止めろ、と手紙で書いた、その主張が正しいわけでもない。
問題は、途上国の貧困や教育の遅れや社会慣習の制約を学者が問題視するとき(それは確かに問題なのだが)、それをすぐ教育と差別の問題に落とし込んでしまうことだ。フリーターの稼ぎの運び屋をやる女性の度胸や、医者に馬鹿にされないように外国人を利用する若い母の知恵が持つパワーは、伝統社会のマイナス面を繕うために仕方なく発達した姑息な手段としか、認めてもらえない。でもそういうふうにしか見ないことは、何かとても重要なことを見逃しているのではないか。何を見逃しているのかは、はっきりと言語化できないのだが。
途上国のことを学ぶということは、それが「遅れて」いることを「改善」するためでもなければ、「遅れていることにもいい面はある」と弁護するのでもない。彼女たちのパワーをどう「正しい」方向に導くかではなく、彼女たちの英知がアジアや中東、アフリカ社会の何を表しているのかを解明することこそが、途上国研究の妙味なのではないだろうか。同情するのでも愛おしがって触れずにいるのでもなく、この素晴らしい知をどのように概念化していくか、それを現代社会の住人たちに「ちゃんと」伝えていくか、それが研究者に与えられた使命なのでは、などと考えた。
途上国と付き合っていたら、誰しも似たような感動の経験をしている。しかし、駆け出しの時期から四半世紀以上を経て、先輩の最終講義でそのことに気が付くなんて、いやはや、鈍感なことです。
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