80歳で死去したことが8月26日に報じられた英国人俳優ティム・カリーは、悪役だけが味わえる密かな楽しみを理解していた。ヒーローは世界を救わなければならないが、悪役はその世界を思う存分楽しむことができるのだ。
カリーの手にかかると、邪悪さにはウィットと欲望、そしてどこか危険な人懐っこさが宿った。悪というものを、誰もが招待されたいと思うような、よりにぎやかで楽しそうなパーティーに見せたのだ。
そうした数々の悪役に先駆けて存在したのが、『ロッキー・ホラー・ショー』のフランクン・フルター博士だった。この役でカリーは一躍有名になり、華麗なまでに過剰な演技を得意とする俳優として、人々の記憶に刻まれた。
フランクン・フルターは、典型的な悪役というより、欲望と虚栄心、危険さ、そしてショーマンシップの塊のような存在だった。カリーはこの役を通じて、その後何十年にもわたって自身について回ることになる一つの法則を打ち立てた。
最もひどい振る舞いをする人物が、同時に最も目を離せない人物にもなり得るということだ。後に演じたどの悪党にも、フランクン・フルターの面影が少しずつ宿っているように見えた。
カリーはさまざまなメディアで長いキャリアを築いた後、2012年に大きな脳卒中を患い、映像作品への出演の多くを制限されることになった。そして今回、その生涯に幕を閉じた。だが、彼が残した仕事は色あせない。
カリーが作り上げたのは、一風変わった悪党たちのギャラリーだった。その悪は曖昧でも陰鬱でもなく、まして退屈であることなど決してなかった。
カリーにとって悪役とは、甘美なまでの「演劇」だった。その最も純粋な形を示したのが、リドリー・スコット監督の『レジェンド/光と闇の伝説』である。
闇の王ダークネスを演じたカリーは、巨大な角、赤い特殊メーク、ひづめ、コンタクトレンズに覆われ、表情で演技できる顔の部分はほとんど残されていなかった。カリーは自身の伝記の中で、この衣装のせいで、実質的に声だけが主要な演技手段になったと振り返っている。
そこで彼は、一つ一つの音節を、まるで何世紀にもわたって磨き上げられた誘惑の言葉であるかのように響かせた。
ダークネスは怪物だったかもしれない。だが、映画の引力を一身に集めていたのも彼だった。
どうしても悪役から目を離すことができない。
カリーはダークネスを、ただヒーローを脅かすだけの存在にはしなかった。「善人」とは別の、禁断の選択肢を観客に差し出し、自制心を捨てたら何が起こるのか見てみようではないかと誘いかけたのである。
カリーはすでに1982年の『アニー』で、このスタイルのコミカルなバリエーションを試していた。彼が演じたルースター・ハニガンは、ミス・ハニガンやリリー・セント・レジスと組み、アニーを利用した企みに加わる詐欺師だ。
強欲で悪賢い人物だが、カリーはそこに、自分の悪だくみが楽しくて仕方がない人物特有の、落ち着きのない喜びを吹き込んだ。
そして『殺人ゲームへの招待』がやって来た。カリー演じるワズワースは、まるで脚本そのものに追い立てられているかのような勢いで、部屋から部屋へと駆け回り、次々と疑惑をぶつけていく。複数用意されたエンディングの一つでは、ワズワース自身が殺人犯となり、ほかの登場人物たちはその役回りに振り回される。
だが、カリーにとって誰が犯人なのかという違いは、ほとんど二次的なものだった。彼の本当の武器は、そのスピード感にあったからだ。
ハリウッドではしばしば、悪役には脅威を、ヒーローには魅力を担わせる。だが『殺人ゲームへの招待』をはじめとする作品で、カリーはその方程式を何度も逆転させた。
『三銃士』では、陰謀をめぐらす権力者リシュリュー枢機卿を演じた。カリーの公式経歴でも、スクリーンで演じた印象的な悪役の一人として挙げられている。
『マペットの宝島』では、ロング・ジョン・シルバーとしてジム・ホーキンズを陥れようと企みながらも、フェルト製の海賊たちに囲まれてまったく違和感なく溶け込んでいた。裏切りをこれほど親しみやすく見せられる俳優は、そう多くない。ひょっとすると、そのあたりは現実の私たちも少し見習っていいのかもしれない。
『ホーム・アローン2』をクリスマスの定番映画として見て育った人なら、カリーといえばプラザホテルのコンシェルジュ、ミスター・ヘクターを思い浮かべるかもしれない。
ケビン・マカリスターの一挙手一投足に、いちいち呆れたような反応を見せる人物だ。映画の悪役とは程遠い存在だが、カリーはヘクターを欠かせないキャラクターにしている。
片方の眉を上げ、怒りがゆっくりと顔全体に広がっていく表情はあまりにも鮮烈で、今ではニューヨークのプラザホテルの前を通るだけで、ケビンのクレジットカードに問題があることがついに発覚し、カリーがグリンチを思わせる邪悪な笑みを浮かべる場面がたちまち脳裏によみがえる。
結局のところ、それこそがカリーの才能だった。たとえ演じるキャラクターの役割がヒーローの邪魔をすることだけだったとしても、観客はもっと彼を見たいと思った。なぜなら、その脅威そのものが楽しみの一部だったからだ(映画によっては、ひょっとすると唯一の楽しみだったのかもしれない)。
スティーブン・キング原作『IT』の1990年のテレビ版で演じたペニーワイズは、同じ才能のより暗い側面を見せた。笑顔はそのままだったが、そこにあった誘いは一転して不気味なものになった。
カリーは悪を面白く、芝居がかっていて、抗いがたい魅力を持つものにすることができた。そして次の瞬間には、そこから笑いをすべて剥ぎ取り、純粋な脅威だけを残すこともできた。
カリーが演じた悪役たちが長く記憶され、これからも残り続けるのは、彼が「やり過ぎ」を決して恥じるべきものとして扱わなかったからだ。彼はいつも、一線を越えようとしていた。
彼の出演作では、ヒーローが秩序を取り戻す一方で、カリーの悪役たちは混乱をあまりにも面白いものにしてしまう。そのためほんの一瞬、彼らが倒されるのを惜しいとすら感じてしまうのだ。
曖昧すぎる目標、敵国の軽視、自国軍事力への過信……長期化・泥沼化したベトナム戦争との共通点