コラム

イラク新首相、任命されたはいいが

2014年08月12日(火)20時09分

 8月8日、イラク北部で大きな脅威となった「イスラーム国」(ISISが改名)の拠点の一部にとうとう、米軍が空爆に踏み切った。その3日後には、懸案となっていたイラク新首相にハイダル・アバーディが任命された。先月末に大統領に任命されたフアド・マアスームが、三期目を主張して譲らなかった現マーリキー首相に、引導を渡したのである。独裁化し宗派対立の種を撒いたマーリキーに責任を負わせて退陣させることで、イラク政界もアメリカも、イスラーム国の攻勢になすすべのない現状を、なんとか打開したいと考えている。その意味で、ほっと胸をなでおろしている向きも多い。

 だが、イラク政界再編で事態は好転するのだろうか?

 2011年以降のマーリキー政権の専横が、スンナ派政治家やスンナ派地域の不平不満を生み、「イスラーム国」に付け込まれる隙を作ったことは、確かだ。ここ数年、シーア派の与党連合のなかからも、マーリキー下ろしの声が強まっていた。今回、「選挙で第一党の地位を獲得した者が首相に」との原則を維持しながらマーリキーを外すためには、シーア派の第一党選挙ブロック、「国民連合」の全面的協力がなければならない。今回首相に任命されたハイダル・アバーディが同連合の長で、かつマーリキーの出身政党、ダアワ党の幹部だったことからもわかるように、マーリキー離れはダアワ党内部にも進んでいたといえよう。アバーディの首班指名に、ダアワ党スポークスマンは即座に「認めない」と反発したが、そこにはアリー・アディーブ高等教育相や、戦前ロンドンでNGO活動を積極的に行って国際的に名が知れているワリード・ヒッリなど、ダアワ党の重鎮の姿はなかったという。

 しかし、この組閣でマーリキーが抱えていた問題が解消されるわけではない。そもそも、アバーディが本当の意味での挙国一致内閣を作れるかどうか。不平不満を抱えたスンナ派政治家を取り込むことができたとしても、それが今のイスラーム国の勢いを抑え込むことにはつながらない。もし本当にスンナ派との挙国一致が現在の危機を回避できるなら、そのためには軍や治安組織が、スンナ派住民にとって「自分たちの軍だ」と自覚できるくらいに、スンナ派が登用されたものに変わらなければならない。それはたいへん時間がかかることだ。もしそれをショートカットでやろうとすれば、旧体制の元軍人を取り込むことになるが、新首相とはいえ、そんなドラスティックな政策変更は無理だろう。

 不安なのは、アバーディ首相がダアワ党でもロンドン支部出身の欧米経験の長い人物だという点である。米英にとっては、話しやすく扱いやすい相手だろう。だが、国内のドロドロした権力関係のなかで、どれだけ手腕を発揮できるか。

 似たような経歴で思い浮かぶのは、米軍統治下で移行期首相に選出されたイブラヒーム・ジャアファリである。流暢な英語と哲学的な会話を楽しむにはいいが、現実の政治からはどこか遊離した存在だった。今回のアバーディ任命の過程では、2008年にダアワ党と決別したジャアファリの姿が、あちらこちらで見え隠れしている。

 そう書くと、結局は欧米の都合のいい政権に代えたかっただけではないか、との批判が聞こえてくるだろう。確かに、「イスラーム国」への空爆も、モースルが制圧されてスンナ派であれシーア派であれアラブ人が苦境に立たされたときには動かなかった米軍が、クルド地方政府の支配するクルディスタンに危機が及んだ途端に、行動に出た。クルド地方政府とアメリカの密接な関係を、「陰謀論」的に取沙汰する向きも強い。少数宗派のヤズィーディ教徒が孤立無援になったことで急きょ「救済」ムードが高まったことも、普通のイスラーム教徒にとっては、「多数のイスラーム教徒だって多大な被害を受けているのに、国際社会はなぜ動かないのか」的不信感につながる。

 (ちなみにヤズィーディ教徒は、「悪魔崇拝」でイスラーム教に反する、とみなされたり、その名前が、カルバラーの戦いでシーア派の三代目イマームのフサインを死に至らしめたムアーウィヤ軍の指揮官で、その後ウマイヤ朝二代目カリフとなったヤズィードと名前が似ているというので、シーア派から疎まれたりと、歴史的に差別されてきたが、存続の危機に至るほどの迫害にさらされたのは、イラク建国以来初めてだ。)

 だが、それは短絡的に過ぎる見方だろう。イスラーム国は着々と統治の基盤を固めており、危機は少数宗派への迫害やクルド自治政府だけに及んでいるのではない。イスラーム国は8月初めにモースル北にあるモースル・ダムを制圧したが、これは首都バグダードを含めイラク国内の主要都市が水源を依存するティグリス川の上流を、イスラーム国が手中に入れたことを意味する。イラク国内全体の水の供給を支配したばかりでなく、ダムを決壊させれば川を氾濫させてイラク社会を破壊できる、重大な手段を手に入れたのである。迫害されるキリスト教徒やヤズィード教徒の生死が懸念されていることはもちろんだが、制圧下にあるスンナ派のモースル住民も、イスラーム国に服従を強いられている被害者に他ならない。それだけの脅威を、数日の米軍の空爆で排除できるとアメリカも思っていないだろうし、新政府が挙国一致で対応できるとも思っていないだろう。クルド地方政府を助ければそれで済む、とも思っていない。

 空爆の是非はともあれ、この状況に対して国際社会が動かないでいること自体が問題ではないか。そもそも周辺国が地域一体となって、シリア、イラクともに対処すべき事態なのではないか。イスラーム国に対する危機感は共有されているにも関わらず、具体的な手立てに繋がらない現状がもどかしい。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

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