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アステイオン・トーク

メディアを「疑う力」だけが育ってしまった...「ポストヒューマン時代」のジャーナリズムのかたちとは?

2025年08月27日(水)11時05分
佐藤卓己+武田 徹(構成:木下浩一)
ポストヒューマン時代のジャーナリズム

Peshkova-shutterstock


<SNSが説得力と共感を呼び、AIがレポートや記事を生成する時代にアカデミズムとジャーナリズムの価値はどこに宿るのか?>


論壇誌『アステイオン』102号の特集「アカデミック・ジャーナリズム2」をテーマに行われた佐藤卓己・上智大学教授と武田徹・専修大学教授による対談より。本編は後編。

◇ ◇ ◇

※前編:ルビコン川を渡る、日本のジャーナリズム...SNS時代に「客観報道」は必要なのか? から続く

メディア・リテラシーの陥穽──真偽は判断できるのか

武田 情報の受け手は、基本的にニュースの「真」か「偽」かは、自分ではなかなか確認できません。だからこそ、「何を信じるか」という問いが重要になります。

佐藤 まったく同感です。私たちがオールドメディアに寄せていた信頼とは、個々のニュースの正しさというよりも、幾重ものチェック機能といったゲートキーパーのシステムに対する信頼でした。

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武田 記者は直接取材して確信を持った事実をファクトとして書く。その上で、新聞社で言えば、キャップやデスクが見て、校閲がチェックし、さらに編集幹部からの指摘というように何重にもチェック機能があります。そうしたシステムが信頼されていたわけです。

佐藤 ソーシャルメディアには、そうしたゲートキーパー機能はありません。

武田 その意味では、メディア・リテラシーやリテラシー教育が重要になるとお考えですか。

佐藤 多くの読者には、ニュースの真偽を判断する知識もエネルギーもありません。しかし、あたかもメディア・リテラシー教育で真偽の判断が可能であるかのように言ってきた点は問題でした。その結果、「とりあえずメディアを疑って批判すればいい」と誤解する人たち、さらには陰謀論にのめりこむ人たちが大量に生まれてしまいました。

そもそも普通の人が「ニュースの真偽を判断できるようになる」という前提自体が、本当に正しかったのか。少なくとも、間違った形でメディア・リテラシー教育が受容されたのだと思います。

武田 「疑う癖」だけが身についてしまったわけですね。

今回の特集でも、元朝日新聞記者で現在、スマートニュース メディア研究所 所長の山脇岳志さんが「人生を変えた一枚のグラフ──世論調査と分極化」で日米のメディアと社会分断について書かれましたが、山脇さんはメディア・リテラシー教育にも熱心で、疑うだけでなく、信じられるものを探していく重要性を指摘されています。

佐藤 かつて憶測レベルの人事情報は「新聞辞令」と表現されていました。それは、あくまで新聞が取り上げた噂話にすぎないのであって、多くの国民が新聞記事を丸ごと信じていたということはありえません。「新聞に載っている=正しい」とされた時代は、高度経済成長からせいぜい半世紀くらいのことですかね。

訂正の可能性と必要性

武田 今回、「ジャーナリズムの思想」という論文を紹介していますが、その筆者の鶴見俊輔がしばしば使うキーワードが「マチガイ主義」、つまり可謬主義(かびゅうしゅぎ)です。

それはジャーナリズムにこそ適用されるべき考え方で、まず人間による営為である限り、「間違い」は不可避ですし、特に速報性が求められるときには、初報で正しいことを伝えたつもりでも、他の事実が後から出てくる難しさがある。

そうである以上、間違うことを認め、むしろ訂正を通じて真実を追求してゆくことにこそジャーナリズムの本質があると考え方を変えたほうがいいのではないか。

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