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ジャーナリズム

今も「新聞記者は首から上はいらない」のか?...SNS時代にこそ求められる「アカデミック・ジャーナリズム」の力

2025年07月30日(水)11時00分
大治朋子(毎日新聞専門記者)
ジャーナリスト

yamasan0708-shutterstock


<壮絶な経験が生み出す「罪悪感」など、現場を歩くだけでは見えない景色がある...。「知の横串」を刺すということについて>


「新聞記者は、首から上はいらない」

バブル(1989年)入社の私は駆け出しのころ、先輩らにそう言われたものだ。「足でかせげ」「頭でっかちになるな」という激励の言葉だったと思うが、「知識」をどこかないがしろにするような雰囲気も感じられた。

一方、初任地の支局長は、自身の経験をもとにこう言った。「何かを詳しく調べたいと思ったら、関連の本を最低3冊は読むといい。専門知識が身につくから。取材での質問も変わってくる」。
 
初任地で教えられた「首から下」と「首から上」の重要性は、「三つ子の魂」のように私の中に宿った。それは文字通り、人間がもつすべての身体機能を総動員して臨む、ということ。とても単純で、しかし意外に難しい取材信条でもある。

ひとつのテーマを掘り下げて取材を重ねる時、「点描画」を描いているような感覚を覚えることがある。一件の取材を点とすれば、点が増える、つまり取材の数が増えるほど、点描画のようにその現場なり問題が浮かび上がる。

だがそれだけではいずれ壁にぶつかる。個別のケースの取材が増えても、それを咀嚼し分析する力に欠けると、まず取材者自身が消化不良をおこす。そしてその未整理の情報をそのまま投げつけられた受け手も混乱する。最悪の場合、意図せぬ「誤報」にもなりかねない。

例えばあるテーマについて、仮に、非常に頑張って50件の取材を重ねたとする。だが統計学的にはサンプル数50の小規模な調査にすぎない。しかも取材手法は、すでに会った人から紹介してもらうという「芋ずる式」になりやすい。勢い、似たような意見なり環境、年齢層に偏ってしまいがちだ。

残念だが、それはまるでサーキット場をぐるぐると回るようなもので、場内のことは詳しく分かるが、一歩外の景色は反映されていない。固有名詞を間違うような誤報ではないが、「深いけれど狭すぎる視界」からうまれた報道は、問題の全体像を映し出していない。

学問的な知識は取材の切り口にも新鮮なアイデアを与えてくれる。広島で原爆被害者の取材を続けるあるジャーナリストがかつて私にこう打ち明けてくれたことがある。

「戦争体験者はあまり語りたがらないし、こちらの質問も同じようなものになってしまうせいか、答えも似たり寄ったり。どうしたら良いのか」

その時私の胸に浮かんだのは、ホロコースト・サバイバーの存在だった。エルサレム特派員時代のインタビューや当時読んだ研究論文で、彼らには一定程度共通するトラウマ(心的外傷)やPTSD(心的外傷後ストレス障害)があることを知った。

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