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三島由紀夫の評論も手掛ける小説家の平野啓一郎氏に、国際政治学が専門でアステイオン編集委員をつとめる中西寛・京都大学教授が聞く(本対談は2025年1月17日に行われた)。『アステイオン102』より「戦後日本社会と三島由紀夫」を転載。本編は後編。
※前編:2025年に三島由紀夫を読み直す意味とは?...平野啓一郎に「文学と政治の接点」を聞く から続く
中西 『豊饒の海』第四部の「天人五衰」は1970年に入って書き始められ、最後の原稿は11月25日、「三島事件」の日の朝、編集者の手に渡ったと言われます。
その行為を決意しながら完成させたわけですが、第四部の副主人公「本多」と、転生者かニセ転生者かわからない「透」との関係はもうドロドロですね。このような最後は、彼の自決行為と密接な関係があるのでしょうか。
平野 『仮面の告白』や『金閣寺』を書いたときは三島もまだ若く、「戦後社会を生きよう」としていて、生きるべき場所としての戦後社会に希望を持っていました。
しかし、晩年は「自分は戦後社会を生きてきたのではなく、鼻をつまんで通り過ぎただけだ」と全否定します。作中、もはや老残の本多は、社会を自分が生きるべき場所として考えませんし、世界をくだらないものとみなしており、そこには三島の晩年の心境が強く反映しています。

中西 11月25日は「『仮面の告白』を書き始めた日」と彼が書いていて、それと関連づける見方もあるようですが、今や答えの出ない問いだと思います。では、1970年という年はどうかといえば、日本の戦後史の1つの転機と言えるでしょう。
3月末によど号ハイジャック事件があり、赤軍を名乗る犯人グループは最終的に北朝鮮に行きます。それから、その少し前の3月15日、大阪万博という全国民的イベントが始まり、9月13日まで約半年間に6400万人が来場します。
三島がこれらの社会事象をどれくらい意識していたかわかりませんが、生きづらさを抱えながら戦後を生きてきた大変才能のある文学者が、この年にあのようなかたちで生を終えることになったわけです。
奇しくも今年は大阪・関西万博の年ですが、55年前の万博のシンボルとして今日も残る「太陽の塔」を制作した岡本太郎は、三島より15歳くらい年長でありながら、日本では戦後に芸術活動を始めたという点で共通しています。
1930年代にパリで過ごしたあと日本に戻り、日本の文化には見るべきものが何もないと言いますが、原始的なドロドロしたものに人間の本質を見出し、戦後早い段階で縄文土器を芸術として認定します。
そして、「人類の進歩と調和という万博は噓っぱちだ。人類に希望があるとすれば、原始的なものを蘇らせること。その観点で太陽の塔を作った」と言っています。
1970年という年に、三島の『豊饒の海』が完成し、大阪万博で太陽の塔が建てられ、三島が自決したということ、これは日本の文化史、戦後史において何かしら象徴的な意味があるような気がするのですが。
