平野 話が飛ぶようですが、昨今ユヴァル・ノア・ハラリやジャレド・ダイアモンド等の人類学的な本が広く読まれているのは、グローバル企業が世界的に影響力を持っていることと表裏一体だと思います。
「人類」を相手にビジネスを展開するうえで歴史に関心を持つとなれば、それは人類史になります。「10万年前にアフリカから人が世界に散らばって...」という文脈のなかでは個別の国の歴史は簡単に相対化されます。

他方、三島は「底辺の国際主義」という言い方で、基層としての人類史的な層があるとしています。その一方に、アメリカナイズされた日本のような戦後社会の国際主義があり、日本の文化はその間に挟まっているイメージです。
その日本文化の中心に天皇を据えますから、タイムスケールは2000年程度。数万年に延長すれば天皇はいませんので、日本の文化の議論にはなりません。また、戦中体験の後遺症だと思いますが、三島には持続する時間のイメージあるいは自身が生き続けるビジョンがありません。
上の世代は戦争に行かずに生き残り、自分の世代の人間は戦争で死んでいったとなると、長生きすることへの侮蔑の念が強くなる。人類の永続、進歩と調和の未来を望むイベントとは相容れません。
岡本太郎は、オプティミストではなかったかもしれませんが、人類学的な視点に立てば人間がいようがいまいが時間は未来に流れていく、というイメージは持っていたでしょう。
時間感覚が延びなかった三島、そして、万博があり岡本太郎がいてということについては、そのように相対化して見ることができるのではないでしょうか。
中西 三島の時代には例えば安部公房がいました。三島自身も「これからの文学は、文化性や国民を離れ、より抽象的で世界を意識した安部公房的なものになるかもしれない」と言っています。
しかし今、とりわけ若い世代の文学者が三島を見直していますし、20世紀の中期から後期を代表する日本の文学者は三島、というのは世界的にもほぼ定説のようです。
今おっしゃったようにグローバル化したビジネス状況が文学や文化の捉え方に連動する現代において、日本語での表現にこだわった三島的な文学にはどのような意味があるでしょうか。
平野 まず、いろいろと矛盾しているところに、三島の文学の可能性はあると思っています。また、日本の三島研究では、性的マイノリティとしての一面を回避するという特殊事情がありましたが、海外では当然のこととして認識されていました。
クィア・スタディーズが盛んになった今日では、かつては差別的に扱われた同性愛の問題が最も重要なトピックとして扱われ、現代的な関心を呼んでいます。
また三島が戦後社会を全否定し、資本主義に対しても批判的だったということも、現在の資本主義批判の文脈において「面白いことを言っている」と関心を呼び続けています。
「日本はそのうち非常に空虚な国になる(*3)」というあの言葉は、右翼からも左翼からも好まれてよく引用されますね。
中西 私も使ったことがあります(笑)。
