アステイオン

アカデミック・ジャーナリズム

今も「新聞記者は首から上はいらない」のか?...SNS時代にこそ求められる「アカデミック・ジャーナリズム」の力

2025年07月30日(水)11時00分
大治朋子(毎日新聞専門記者)

たとえば彼らも戦時中の体験を積極的に語りたがらない。思い出すのがつらいからだけではない。「サバイバーズ・ギルト(survivor's guilt)」と呼ばれる心理で、専門家によれば、背景には「恥じる心と罪悪感(shame and guilt)」があるという。自分だけが生き残ってしまい「申し訳ない」「後ろめたい」という思いだ。

広島、長崎の被爆者や沖縄戦で地上戦に巻き込まれた人々もまた、戦時中の体験を語りたがらない傾向がある。トラウマは人間を「沈黙」させる。戦争が次世代にまで残す大きな負の遺産だ。そのような前提知識があれば、日本の戦争被害者への取材の切り口や質問も、より多様なものになるかもしれない。

『アステイオン』102号の特集「アカデミック・ジャーナリズム2」で、武田徹氏は「出来事の第一報」と「続報」について触れている(論考「SNS時代のジャーナリズム」)。

第一報は「何が起きたのか」を正確に伝えればよく、「受け手もそれ以上の情報を求めない」。ところが続報では、それに加えて「解釈したり、今後の展開を予想したりする必要が生じる」。

個別のケースなりデータを縦糸とすれば、それらを横糸でつなぐ、いわば「横串」としての分析や意味づけが期待される。横串の手立てとして使えるのが、すでに述べたような取材者自身のアカデミックな知識だが、それ以外にも、当該問題に詳しい専門家のコメントや世論調査が大いに役立つ。

ただここにおいても、取材者には一定程度の専門知識が求められる。「どの専門家に語ってもらうべきか」「何を聞くか」で横串、つまり意味づけが変わり、報道のトーンを異なるものにしていく。

SNS時代の昨今は、フォロワーの多い専門家の談話を紹介することで、その記事を拡散してもらい、閲覧数を稼ごうとするかのような動向も見受けられる。

社内の「SNS圧力」によるものかもしれないが、本来はその問題の「専門家」ではないのに取材者の知識不足からそうであるかのように取り上げてしまい、誤った分析が一人歩きすることがある。コロナ禍では特によくみられた現象だ。

そこには「情報集めだけが記者の仕事」「あとは専門家が意味づけしてくれる」という「首から下」偏重主義の文化がまだ根強くあり、さらに根底には、「その方が自分もラク」という取材者の本音が隠れている場合もある。

本特集号では、山脇岳志氏が世論調査の重要性について論考を寄せている(「人生を変えた一枚のグラフ――世論調査と分極化」)。社会の声は貴重な横串となるが、ここにもワナはある。記事に引用するのであれば、調査の規模や手法、対象者や時期、誤差などを確認し、偏った分析になっていないかなど統計学的な視点での最低限のチェックは必要だろう。

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