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メディアを「疑う力」だけが育ってしまった...「ポストヒューマン時代」のジャーナリズムのかたちとは?

2025年08月27日(水)11時05分
佐藤卓己+武田 徹(構成:木下浩一)

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左から武田徹・専修大学教授/アステイオン編集委員、佐藤卓己・上智大学教授。本座談会は2025年6月に都内で行われた。写真:サントリー文化財団

ポストヒューマン時代のジャーナリズム

佐藤 最近、教員同士で話していても、「これ、どう見てもAIで書かれている」というレポートがどんどん増えています。

武田 ありますね。構成や言い回しが妙に整っていて、でもどこか空っぽというか。

佐藤 妙に整いすぎていて主観がない。しかし、それは見方によっては、むしろこれこそ「客観的」です。AIには感情もバイアスもないわけですから。

そう考えると、これまでジャーナリズムが目指してきた「客観報道」という理想像そのものが、AIに代替される可能性を孕んでいます。客観的であることが価値だというのであれば、「それならAIが一番客観的だよね」という話になりかねません。

こうした状況の中、アカデミズムもジャーナリズムも、その基盤から揺さぶられている。そうした中で、武田さんが今後どんな形で発信を続けていくのか、個人的にとても注目しています。

武田 戦争報道が典型ですが、ジャーナリストたちは、自らの命を賭して現場に立っています。生物的な生命を賭けずとも、記者生命を賭けて記事を書いています。こうして命懸けだから受け手はジャーナリズムを信じている。生身の人間の命がそのまま報道の信頼性の担保になっています。

この「命がけの報道」という領域に命なきAIが入ってくることはあり得ません。だからこそ、送り手も受け手もジャーナリストという人間が賭する「命がけの部分」を大切にしていく必要があると思っています。

佐藤 これまでも我々は「内容の真偽」によって信じてきたのではなく、ジャーナリストという送り手、さらにいうと彼らが所属する組織や集団、システムを信頼してきたことは先ほど述べた通りです。

大学においてはAIで書かれたレポートの提出が当たり前になり、AIが書いた記事こそが「客観報道」になりかねないポストヒューマン時代にこそ、「記事の客観性こそが信頼の根拠である」という前提の一人歩きを、改めて問い直さなければならないと思います。

武田 ジャーナリズムに対する信頼は、どこからくるのか。われわれ受け手は、何ゆえにジャーナリズムを信じるのか。ポストヒューマン的状況は、送り手と受け手の双方に対して、大きな問題を突きつけていますね。


佐藤 卓己(Takumi Sato)
上智大学文学部新聞学科教授、東京大学大学院情報学環客員教授、京都大学名誉教授
1960年、広島県広島市生まれ。1989年、京都大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。東京大学新聞研究所助手、同志社大学文学部助教授、国際日本文化研究センター助教授、京都大学大学院教育学研究科教授を経て、現職。専門はメディア文化論。著書に『大衆宣伝の神話』(ちくま学芸文庫)、『現代メディア史 新版』(岩波書店)、『キング』の時代』(岩波現代文庫、日本出版学会賞、サントリー学芸賞)、『言論統制 増補版』(中公新書、吉田茂賞)、『八月十五日の神話』(ちくま学芸文庫)、『テレビ的教養』(岩波現代文庫)、『輿論と世論』(新潮選書)、『ヒューマニティーズ 歴史学』(岩波書店)、『ファシスト的公共性』(岩波書店、毎日出版文化賞)、『流言のメディア史』(岩波新書)、『あいまいさに耐える』(岩波新書)など多数。


武田 徹(Toru Takeda)
ジャーナリスト、専修大学文学部ジャーナリズム学科教授、アステイオン編集委員
1958年、東京都生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科修了。大学院在籍中より評論・書評など執筆活動を始める。東京大学先端科学技術研究センター特任教授、恵泉女学園大学人文学部教授を経て、現職。専門はメディア社会論。著書に『偽満洲国論』『「隔離」という病い』(ともに中公文庫)、『流行人類学クロニクル』(日経BP社、サントリー学芸賞)、『NHK問題』(ちくま新書)、『原発報道とメディア』(講談社現代新書)、『暴力的風景論』(新潮選書)、『日本語とジャーナリズム』(晶文社)、『現代日本を読む──ノンフィクションの名作・問題作』(中公新書)、『神と人と言葉と 評伝・立花隆』(中央公論新社)など多数。


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