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メディアを「疑う力」だけが育ってしまった...「ポストヒューマン時代」のジャーナリズムのかたちとは?

2025年08月27日(水)11時05分
佐藤卓己+武田 徹(構成:木下浩一)

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佐藤 先ほど議論したメディア・リテラシー教育の根底には、カルチュラル・スタディーズという学問領域における「アクティブ・オーディエンス(active audience)」の概念があります。送り手が意図した通りに受け手(オーディエンス)が受動的に受容するわけではなく、時に対抗的な読みをするというものです。

こうした積極的な読者を想定するのであれば、間違いが起きないことを目指すのではなく、むしろ間違いが起こることを前提に対応すべきなのでしょう。

武田 欧米の教育の根底にはキリスト教的な「人は不完全である」という前提が根底にあります。また、伝統的な政治思想においても、たとえば保守主義は「人間は誤る」という見方から出発します。つまり初めに「自分への不信感」ありきなんですね。

ところが日本の教育現場では、「正解」を求める傾向が強い。情報を発信する側も受け手も、自分を疑う視点が足りていないのかもしれません。

佐藤 そもそもメディア・リテラシー教育を初等中等教育のカリキュラムの中に組み込むことが、難しいのかもしれません。大学の講義では「正解はありません」と言っても許容されますが、小中学校の教室で同じことを言うのは難しいでしょう。

学校教育よりもメディアによる社会教育が重要です。メディア側も日々の報道のなかで、受け手のリテラシーを育てる役割を担えるはずです。オーディエンス自身がニュースに接するなかで、間違いを経験しながらリテラシーを身につけていくような形があってもいい。

いずれにせよ「メディア・リテラシー教育」を学校の教室に押し込めてしまうやり方には、限界があるのではないか。そのように感じています。

反証可能性と正義との相克

武田 今回の「アカデミック・ジャーナリズム」特集では、「科学」もひとつのキーワードになっています。

カール・ポパーは「反証可能性」を重視し、反証されることで命題は科学的と判断されうる、と考えます。逆に反証できないものは、科学とはいえない、と。

佐藤 私は大学では歴史学を学んできましたが、そもそも過去の学説が間違っていなければ、歴史学はまったく存在理由がありません。

東浩紀さんやユヴァル・ノア・ハラリさんも最近、修正することの可能性や重要性を指摘していますが、アカデミック・ジャーナリズムが、アカデミズムとジャーナリズムを架橋するものであるならば、「マチガイ主義」は、その柱となる重要な論点です。

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