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筆者は、『虎ノ門ニュース』という右派論壇の論客がニュースを解説するネット番組を分析したことがある。これは、いわば、既存の大学や報道機関という「権威」に対する大衆の不信を推進力としつつも、それらの「権威性」を模倣するという構造を持つものだった。
そこでは、「エリートに聞いてもらえない本音」の感情に寄り添うことで、熱狂的なファンダムを形成していた。裏を返せば、既存のマスメディアが市民からの信頼を得るためには、「話を聞いてもらえる」という有効感覚を醸成する「参加」の論理を取り入れる必要が生じるのではないか。
「ジャーナリズムとは何か」。多様な意見や議論が飛び交うような公共空間の中核を担う営みとされてきたこの言葉が、今の情報環境の中では力を失いつつあるようだ。その輪郭をもう一度描き直そうとする試みが、『アステイオン』102号の特集「アカデミック・ジャーナリズム2」だ。
本特集が問いかけるのは、誰もが発信者となりうるSNS時代に硬直化する、アカデミズムとジャーナリズムの関係性、そして「ジャーナリズムの思想と科学」という新たな視点から見える再構築の可能性である。筆者自身、両極分解する報道の現場と学問をどのように架橋すれば良いのかを意識させられることは多く、本特集の一文一文に深く引き込まれた。
たとえば、澤康臣氏の論考「日本型「報道倫理」論を越える」は、市民に対する報道被害を食い止めるという消極的・制約的な動機から考えられがちな報道倫理を、公衆(パブリック)に奉仕するというより主体的な営みとして報道倫理を捉え直す点が興味深い。
さらに一歩踏み込んで、「何が市民のためになるのか」をどのように決めるのかと考えていく時、それは専門職を中心とするジャーナリズムの見方をラディカルに改める可能性をも示唆しているように思われた。
今回抜粋再録された、鶴見俊輔氏の「ジャーナリズムの思想」において論じられているように、「ジャーナリズム」から「ジャーナル=市民が毎日つけることのできる日記」という意義は失われ、「機構としてのジャーナリズムの思想と、そこに働くジャーナリストの思想とがきりはなされ」ている。
現在においても、日本のジャーナリズム論は、報道記者や編集者のような職業人を担い手とする「職業論」に終始しがちであり、ゲートキーパーと「その他」の一般市民の間の距離は開いたままであるようにも思われる。
かつて注目を集めた「市民ジャーナリズム」も、あらゆる人々が情報発信の担い手となり得る今日の情報環境にあっては、いささか古めかしいものとして認識されているように思われる。送り手と受け手の区別が失われ、情報発信に特別感のない時代だからこそ、改めて「ジャーナリズムとは何か」という境界線を問い直す必要があるのではないかと考えさせられた。