ジャーナリズムに見られる閉じた専門職性は、アカデミズムにも跳ね返ってくる問題でもある。オンライン上で一般市民が「集合知」を作り上げ、絶大な影響力を発揮するような状況はよく目撃される。
その中には特定の人々に囲い込まれた既存の科学や学術に対する不信と結び付き、似非科学や陰謀論のような民主主義に深刻な影響を及ぼすものも見られる。したがって、大学を基盤に形成された専門知の権威性を見直す必要性も生じてきている。
同特集では「科学ジャーナリズム」に関する論考も多く組まれている。粥川準二氏は「映画リテラシーのすすめ――『オッペンハイマー』と科学技術社会」で、映画『オッペンハイマー』における原爆の表象から「映画リテラシー」のあり方を論じ、ジャーナリズムのさらなる科学化(学問化)を主張する。
また、須田桃子氏も「実践から考える科学ジャーナリズム」で科学記者としての経験を綴りながら、より多くのジャーナリストが「科学的な視点」を得ることの重要性を指摘する。
確かに、科学者の権威性に追随し、自分自身の解釈に都合の良いように「取材源=科学者」の発言をチェリーピッキングするのではなく、科学のようなブラックボックスになりがちな事象について正確な報道を期することは、ジャーナリズムにおける信頼の回復における条件の一端となるだろう。
しかし、学術(科学)的視点に基づく専門性の強化だけでは、「学術(科学)的視点を持たない一般市民」との非対称的な関係を前提としてしまうようにも思われる。
富永京子氏が前回の特集に寄せた論考「アカデミズムとジャーナリズムとアクティヴィズムの「適切な距離」が今こそ必要」で示唆した通り、アカデミズムとジャーナリズムの連携が権威的なものとして構想されるならば、それは一般市民を知の共創の実践から締め出す結果に終始するかもしれない。
市民との関係性において「ジャーナリズムの思想」を捉え直す上で、武田氏の論考「SNS時代のジャーナリズム」は特に印象深いものだった。
この論考の土台にある玉木明氏は、一人称を避け、語り手の存在を抹消して記されることで、中立性を装う「無署名性言語」の論理が、読者の一人称複数的な類型的判断を紛れ込ませる余地を生み出すと指摘する。
そして、武田氏は「〈一人称の言語領域〉と〈三人称の言語領域〉を適材適所で配置」しながら、オンライン空間に客観的で信頼に値する情報を還流させていくべきだという指針を示していく。