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メディアを「疑う力」だけが育ってしまった...「ポストヒューマン時代」のジャーナリズムのかたちとは?

2025年08月27日(水)11時05分
佐藤卓己+武田 徹(構成:木下浩一)

武田 しかし、現実のジャーナリズムは、依然として訂正が下手です。読者の信頼を裏切ると思うとなかなか訂正できないのでしょうが、そこは読者の意識も含めて変えてゆかなければならない。

佐藤 ジャーナリズムは、正義へのこだわりがなければうまく機能しません。ジャーナリストが「自分の信じる正義」に従って記事を書くとき、もはや「真実か、間違いか」は二の次になります。そうなると客観報道ではなく、感情報道に傾いていきます。

とはいえ、「心情倫理家は、純粋な心情の炎、たとえば社会秩序の不正に対する抗議の炎を絶やさないようにすることにだけ「責任」を感じる」と『職業としての政治』でマックス・ウェーバーは語っています。

そうした「純粋な心情の炎」を、正確な事実やその結果責任よりも重視するジャーナリストはいまも少なくないでしょう。実は私自身もそうしたジャーナリストにそれほど批判的ではないのですが、ジャーナリストが心情倫理を結果責任よりも優先することを、ウェーバーもむしろ好意的に書いていますよね。

「説得」と「共感」──SNSとケアの論理

武田 SNSに代表されるメディア空間では、直接「あなた」に呼び掛ける手法が功を奏してネット論壇を形成しています。二人称的な語りかけは、励ますなど人々の心の支えとなる<ケア>の文脈で、とりわけ有効性を発揮します。

単なる情報伝達を超えて、受け手の精神的な支援を果たす役割を担う機能も、今後のジャーナリズムには求められるのかもしれませんが、<ケア>は感情労働として事実よりも感情を優先するため、ジャーナリズムにおいて逆機能を孕んでいることにも当然、留意が必要ではあります。

佐藤 アカデミズムの世界で私たちが論文を書くときは、批判する相手や、説得すべき他者を想定して書きますよね。読者対象を明確に定め、その相手に読まれたうえで、なお納得を引き出すための論理力や表現力が求められます。

ところがジャーナリズムの世界では、そのような説得すべき他者が常に想定されて書かれているとは言えません。むしろ「うんうん、よく言ってくれた」という賛同的な読者を想定して書かれがちです。

武田 あらかじめ価値観を同じくする読者との共同体が作られてしまっている。書き手であるジャーナリストと受け手である読者が、互いに縛り合う関係ができていますね。

佐藤 ジャーナリズムにおいて、アカデミズムと同じように他者を説得するようなコミュニケーションは可能なのか。だからこそ、アカデミズムとジャーナリズムの両者が交わる領域において、その可能性を探っていくことが大切です。

そして、そのそれぞれの領域とは別に、武田さんが「汽水域」と呼ぶ、第三の領域も重要になってくると思います。

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