「私を失格にしてほかの人を選ぶこともできます。このまま私が受賞するなら、この件についてオープンに議論することを強く進言します」。さらに、写真にAIを使うべきかどうかについて、公開討論会を開くことも提案した。

この要望に対する回答はなく、授賞式に出席してくれればうれしいと言われた。私の作品がAI画像であるという事実に関して、主催者の立場も見解も説明はなかった。

受賞作品を発表するプレスリリースも、世界的に権威のあるコンテストでAI画像が初めて受賞したことには触れなかった。「AIであることは承知しており、AIの参加を歓迎します」「驚きましたが、来年は新しいカテゴリーをつくりましょう」などと言うこともできたはずだ。

感情的な質を持つ作品

主催者は淡々と事を進めたかったのだろうが、すぐに報道陣から、AIが生成した画像ではないかという疑問が出始めた。私はそれに答える文書を主催者に送ったが、公表されなかった。

AI画像であることに写真家たちが激怒していると聞いて、これは実験であり、私も主催者も既に知っていると説明しようとしたが、誰もこの話題に触れたがらなかった。結局、主催者とのやりとりは立ち消えになった。彼らはメンツを保とうとしたのだろう。

私は授賞式に出席して、話をする予定はなかったが、ステージに上がって声明を読み上げた。その後、自分のウェブサイトやソーシャルメディアに声明を掲載して、主催者に声明を添えてメールを送り、賞金はウクライナのオデーサ国際映画祭に寄付してほしいと申し出た。

翌日、私の写真と名前は主催者のサイトから削除された。以来、彼らから連絡はない。

賞が欲しくて応募したのでは決してない。受賞を辞退した自分を情けないとも思わない。アート界のためにやりたいと思ったことをしただけだ。

私は人間としてのアーティストが重要だと考えている。アーティストは自分が生み出しているものを、世界や人間の状況に結び付けなければならない。そして、私たちが指示することによってのみ、ある種の感情的な質を持ち、芸術として定義される画像を作り出すことができる。

アート作品はオープンであってこそ、人々に衝撃を与える。作品を見て何を感じ、どんな記憶が呼び起こされ、どんなことを考えるか。どうして驚愕し、どうして魅せられるのか。そんなふうに作品を見ると、自分自身について多くのことを学べるはずだ。

そのプロセスにおいて人がどこまでクリエーティブになれるかは、複雑な問題だ。AIを嫌う人の多くは、「あなたは何も創造していない」と言いたがる。

でも、私は自分がAIに取って代わられるとは恐れていない。全ての人間と同じように、私は唯一無二の組み合わせの存在だから。

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