旗本が江戸城の明け渡しに抵抗しなかったワケ

やっぱり旗本どもは、300年の泰平ですっかり腰ぬけになってしまったのだ。尚武の心を忘れたのだ......という批判はかならずしも誤りではないけれども、私には、それも何となく後知恵という感じがする。

想像力が足りない。もうちょっと彼らの身になって考えるなら、もしかすると、彼らはそもそも江戸開城という事件自体をそう大したものとは思わなかったのかもしれない。

おどろくに値しない、とまでは言えないにしろ、

──あっても、おかしくない。

そんなふうに見ていた。

これを考えるとき参考になるのは、当時の用語である。当時の人々はもちろんイギリス名誉革命を知らなかったし、「無血開城」という語も知らなかった。「無血開城」は後代の歴史家が名づけた一種の概念語である。私がこれまで開城と呼んできた事件は、一般的には、お城の「明け渡し」と呼ばれたはずだ。

実際、西郷隆盛と勝海舟も、例の2日間にわたる交渉の席ではこのことばを使っている。そうしてこの「明け渡し」の語は、幕末にとつぜんあらわれたのではない。どころか徳川期を通じて一種の流行語でありつづけた。その実例は全国に、つねに存在していたからである。

徳川時代は「おとりつぶし」「国替え」が日常茶飯事

徳川期を通じて、幕府権力はおおむね絶大だった。

全国の大名から所領を没収することも、あるいは彼らを別の土地へ移動させることも容易だった。前者は改易、後者は転封という。

もしくは前者は「おとりつぶし」、後者は「国替え」とも。或る統計によれば改易はぜんぶで200件以上、転封は300件以上あったというからたいへんな数だ。なかば日常茶飯事である。そうしてこれらの実行には、当然いちいち城の明け渡しがともなうわけで、ほとんどの場合、じつに平和裡におこなわれた。

早い話が、赤穂浪士だ。これは幕末から数えると160年ほど前の話になるけれども、播磨国赤穂藩主・浅野長矩がとつぜん江戸城内で吉良義央に斬りかかり、軽傷を負わせたため、幕府はただちに、

──浅野長矩には切腹を命ず。その所領は没収する。

典型的な改易である。家臣たちは全員解雇。浪人ぐらしの始まりである。のちにその家臣たちが、というより旧家臣たちが主君の仇とばかり吉良邸に乱入して義央その人を殺害したことは、いうまでもなく後年、いわゆる忠臣蔵ものの芝居や小説となって一種の神話と化したけれど、考えてみれば、あの旧家臣たちは、それほど血の気が多かったにもかかわらず赤穂城の明け渡しのときは何らの抵抗もしなかった。

指をくわえて眺めていた、かどうかは知らないけれど、とにかく後任者をあっさり城に入れた。自分はあっさり出て行った。当時のことばでは「引き退く」という。これはほんの一例で、ほかの改易200件、転封300件の場合にもほとんど混乱はなかったようである。

接収はつつがなくおこなわれたのだ。もともと改易はともかく転封のほうは浅野長矩のごとき不祥事が原因とはかぎらず、単なる幕閣内の人事異動の反映にすぎないことも多かったから、その場合はなおさらいっそう抵抗の理由がなかったにちがいない。徳川時代とは無血開城の連続だった。ほとんど「引っ越し」と同義ではないか。

革命と気づかれないまま無血開城が実現