<欧米人との会議や折衝の場で日本人の口数が少ないのは、語学力のせいではない。通訳が入っていても変わらないからだ。そこには、コミュニケーションタイプの違いが関わっている>

たとえば、頼みごとをしていた取引先に電話したとしよう。

「あっ、今いいですか?」

「かまいませんよ」

「例の件ですけど......」

「あ、あれですね。オーケーです」

「では、よろしくお願いします」(ガチャ)

こういった会話は、日本語話者であるわたしたちはちっとも不思議に思わないが、欧米人同士では成り立たない。本来は家族間でのみ行われるような会話である。

アメリカの文化人類学者エドワード・T・ホールによると、コミュニケーションの型は「高コンテクスト(ハイコンテクスト)文化」と「低コンテクスト(ローコンテクスト)文化」に分けられるという。

高コンテクスト文化におけるコミュニケーションでは、実際に言葉として表現された内容よりも、その場の状況や話し手、社会の慣習など、言外の意味を察することで意志の伝達が行われる。

その代表とされるのが、先の例で示したように日本語である。

他方、低コンテクスト文化におけるコミュニケーションでは、言葉が重要な役割を果たしており、すべてをきちんと言葉にしなければ伝わらないとされる。

欧米語は基本的にどれも低コンテクスト文化に属するが、フランス語やイタリア語などのラテン語系よりも、英語などのゲルマン語系言語にその傾向が強い。その代表的な例はドイツ語である。 

人種や言語、宗教、価値観などの異なる民族がひしめいていたヨーロッパ大陸では、意思を疎通するためには言葉に頼るしかなかった。

もしそれが不十分だったりすれば、たちまち戦につながりかねない。だから、誤解のないように可能な限り具体的、かつ詳細に伝えようとしてきたのだろう。

結果として、西洋人は多弁になった。お互いに共有する前提条件が少ないために言葉に頼らざるを得ないからである。

相互理解はむろんのこと、自分たちの立場を優位に導くためにも言葉を駆使する。西洋で古くから雄弁術が発達したのももっともだと思う。

しかし、有史以来、ほぼ同じ民族が似たような文化のもとで、海に隔てられた土地で暮らしてきた日本では、世界でも例を見ないほどの同質文化が形成された。

こういう社会では、体験や具体的な事実など、会話の前提となるものをお互いに多く共有しているために話は通じやすく、その結果、日本人は「言葉少な」になった。

話し言葉だけではなく、書き言葉でも
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