本物だと信じて青森県の「キリストの墓」にお参りする人はあまりいないだろうからいいとしても、20世紀の終わり近くになって登場した、枚方市牧野阪にアテルイの首塚があるという主張を真面目に受け入れて町おこしに利用してよいかは、話が別であろう(馬部 2019)。
翻って考えれば、そもそも史跡という制度自体、ある種の歴史意識の共有を図る装置として広まったものである。
史蹟名勝天然紀念物保存法(1919)制定を推し進めた、東京帝国大学の国史家黒板勝美は、長年一般に国民が信じるものであれば、歴史的価値が無くても、その感化力を理由に史蹟と認められるべきだと説いていた。
その具体例が、『太平記』において正統な南朝方のヒーロー、楠木正成(まさしげ)・正成(まさつら)父子の別れの地としての桜井駅跡だった。
既にその出来事の事実性を疑う学説は出ていたが、「桜井の別れ」は、戦前の教育の現場では定番ネタだった。たとえ歴史学的には疑問があったとしても、楠公の集合的記憶を象徴する桜井駅は、国民統合のための装置として、史蹟指定に値したのだった(高木 2024)。
このように、日本史が持つ社会的需要には、学問としての「日本史」では応じきれないもの、あるいは応じるわけにはいかないものがあるのだ。
学問としての「日本史」の社会的需要
とはいえ、学問としての「日本史」と社会的な日本史需要のずれを過度に強調するのは戒めるべきだろう。
博物館・文化財行政や自治体史編纂の現場で日本史学の専門性が求められることは一般的であり、近年では公文書管理・アーキヴィストの重要性も意識されるようになっている。
観光や町おこしと関わって日本史が前面に押し出される機会はままあり、先述の通り、偽史に絡めとられない能力も大事になる。大学や高校の先生、あるいは大河ドラマの考証担当にならずとも、日本史学の専門性を求められる場所はあるのだ。