一九三七年の日中戦争勃発から八九年が経過した二〇二六年の日本。
この国では再び、戦争を甘く見る不穏な空気が広がっているようにも見えます。
当時と同じような物の見方と考え方、同じような言葉遣い、同じような政策上の優先順位が、政府と国民、そして両者を繋ぐメディアの中に出現しています。
そして、当時使われていたのと同じような語句や論法を用いて、政府や国策への異論を封じる恫喝の言説が、ネットの爆発的な影響力を通じて社会に広がっているようです。
これはつまり、日本国民の意識が、何らかの理由で、一九三〇年代の日本と同じようなものへと回帰しつつあることを意味します。(242〜243ページより)
特に気になるのは、「批判」をネガティブに捉えるムードの高まりだ。「批判」とは本来、物事の問題点を指摘し、検討する行為である。ところがネット上では、対象への「攻撃」や「否定」であるかのように受け取られる場面も少なくない。
しかし、本当の意味での「批判的思考」を持っておくことは、こんな時代だからこそ重要だ。
物事を鵜呑みにすることなく、疑って検証してみる――。それは、人間が本来持っている知性であり、危険を回避するための力でもある。
この点に関して興味深いのは、著者が「胡散臭い」と感じることの重要性を説いていることである。
例えば、人の話を聞いて「胡散臭い」と感じるのは、いわゆる「勘」とは違います。
語られる言葉の中に、全体として整合しない部分を感知して違和感を覚えたり、説明の部分と結論の部分が自然な形でお互いに接続していないことに気づいたり、その主題であれば当然触れるであろう大事な点に触れていないと感じた時、それを明確に言語化できなくても、頭の中でアラームの音が鳴る。これが、「胡散臭い」という反応です。
総理大臣や政府の説明を聞いて「胡散臭い」と感じたら、その感覚を大事にして、拒絶反応を示してもいいんです。そうしないと、一見もっともらしい綺麗ごとの大義名分に何度でもだまされて、戦乱の坩堝の中へと突き落とされることになります。(244〜245ページより)
つまり、その作業を怠れば、1937年と同じように「戦争を甘く見る空気」に染まる可能性があるということだ。
決して大げさな話ではないだろう。“なんとなく流れに任せる”のではなく、自分自身の批判的思考と「胡散臭さ」への嗅覚を最大限に働かせることが重要なのではないだろうか。
[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。他に、ライフハッカー[日本版]、東洋経済オンライン、サライ.jpなどで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)、『この世界の中心は、中央線なのかもしれない。』(辰巳出版)など著作多数。2020年6月、日本一ネットにより「書評執筆本数日本一」に認定された。
曖昧すぎる目標、敵国の軽視、自国軍事力への過信……長期化・泥沼化したベトナム戦争との共通点
