<母国の韓国と日本のそれぞれの言語で執筆・出版を行う筆者にとってAI翻訳は敵か味方か>

筆者は韓国出身で、母国語ではない日本語を使って文章を書く仕事をいろいろやっている。例えば、研究論文やビジネス書の執筆、短歌を詠む歌人としての活動とともに、エッセーやコラムを書くときももちろん、最近だとエッセー歌集『カジョクのうた』(KADOKAWA)を世に出した際にも、日本語で考えて日本語で書くことが圧倒的に多くなっている。

一方、韓国で暮らしていた時代には韓国語で書籍を8冊ほど出版した経験があり、日本でも韓国でも「書く仕事」をそれぞれの国の言葉で行っている少し珍しい人かと思う。
 

ところで、新著を韓国にいる家族に読んでほしいという気持ちで自ら翻訳を行っているのだが、いかに韓国の読者にすっと入っていく文章に変換できるかを考えながら行うと、相当な時間や労力が必要だなと感じる。なぜなら、言語は伝達のツールとしてだけではなく、風習や習慣、さらには文化をつくり上げてきたものだからこそ、その国の文化や人々の思考、習慣などを理解した上でそれに寄り添った言葉へと変換しなければならないからだ。

特に短歌の場合は一層の難しさを感じる。31文字しかない短い詩でありながら57577のリズムがあるからこその文学なのに、そもそも短歌というものが存在しない韓国の人々が相手な上に、定型詩のリズムが崩れてしまう翻訳となるので、短歌の良さを伝え切れない悔しさがある。また日本語の表現的にも非常に省略された描写になるため、韓国語に翻訳する際には韓国語で新しい詩を書くほどの気持ちでやらないと作者の想いが伝わらないもどかしさも出てくるのだ。

AI翻訳が驚くほど普及
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