全米を回って普及活動

それから約40年間、テイラーは全米各地をくまなく回って講習会を開き、選手とコーチを指導した。「(テイラーは)全米の大学のバスケットボールコーチ全員と知り合いだった時期もあった」と、コンバースの副社長などを務めたジョー・ディーンは言う。

講習会は、地元紙でもよく取り上げられた。特に選手やコーチを魅了したのがテイラーのバスケットボール技術だった。

「37年のある日、講習会でノートルダム大学3年生のレイ・メーヤーという選手が前に出るように言われた」と、スミスは著書に記している。メーヤーが所属していたノートルダム大学のバスケットボールチームは、全米選手権で優勝した強豪だった。

「テイラーは、メーヤーに課題を与えた。講習会では定番のものだ。ボールを奪ってみろ、というのだ」

このとき、テイラーは30代半ば。おなかの回りには贅肉が付き、額は既に後退し始めていた。メーヤーは、簡単にボールを奪えるだろうと高をくくっていた。

しかし、その予想は裏切られた。「パスを奪えなかった」と、メーヤーは振り返っている。「圧巻のボールさばきだった」。テイラーは、マジック・ジョンソンよりはるか昔に、パスする相手と別の方向を見てパスをする「ノールックパス」を身に付けていたのだ。

バスケットボールに対するテイラーの貢献は、地道な普及活動だけではない。「コンバース・バスケットボール年鑑」を作った功績も大きい。この年鑑には、有力コーチによる戦略解説、選手名鑑、シーズンの記録、さまざまなチームの写真などが掲載されていた。

年鑑には、スニーカーのセールス上の仕掛けも仕込まれていた。写真を載せてほしいチームは、こぞってコンバースのスニーカーを履いたのだ。

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生涯を捧げバスケを伝道

もう1つ忘れてはならないのは、テイラーが選ぶ優秀選手リストのコーナー「オールアメリカン」だ。掲載する選手の選考をする際、テイラーは大都市だけでなく、全米の町から選手を選ぶように心掛けた。田舎の高校生でも「毎年何万部も発行される年鑑に掲載されれば、全国区の存在になれた」と、スミスは書いている。

年鑑のヒットにも後押しされて、コンバースはバスケットボールの世界で存在感を増していった。それに伴い、テイラー自身もスターになり、テイラーの署名が印刷されたスニーカーが売られるようになった。こうして誕生したスニーカーが「チャック・テイラー」である。

セールスマンの名前が商品名になることなど、普通では考えにくい。しかし、テイラーを単に「セールスマン」と評するのは、ウラジーミル・ホロビッツを「ピアノを弾く人」、アーノルド・シュワルツェネッガーを「ボディビルダー」と呼ぶようなものだ。

テイラーはありきたりのセールスマンではなかった。バスケットボールの「伝道」に生涯を

捧げたと言っても過言でない。スニーカーの売り上げは、後から付いてきた。

60年代に仕事を引退。68年、バスケットボール名誉殿堂に選出された。世を去ったのは、その翌年だった。

70年代に入ると、ほかのメーカーの台頭により、コンバースはバスケットボールの世界で絶対的な存在ではなくなった。しかし近年は、スケートボーダー、パンクロッカー、ラッパー、グランジアーティストといった人たちが「チャック・テイラー」を愛用し始めた。今では、このスニーカーはアメリカ文化の一要素になっている。

チャック・テイラーは、アメリカンドリームを地で行く人物だ。その名前を冠したスニーカーがいかに愛されているかは、私の、私の娘の、そして世界中の何億人ものファンの靴箱を見ればよく分かる。