<「朝日新聞記者による朝日新聞批判本」に漂う甘え。「朝日新聞記者なのに、ここまで書くことができた」ことを誇る前に、社に「さよなら」と決別し、筆者自身が自分の足で新しい一歩を踏み出すべきだ。本当にできれば、だが>
今回のダメ本
朝日新聞の記者(退職した元朝日のライター・ジャーナリストも含めて)は朝日新聞を語ることが好きで、物差しを「朝日新聞」に置きたがる傾向が強い。
私も新聞業界には10 年ほどいて、前職では朝日新聞出身者とも仕事を競ってきた。そこでしばしば目にしたのは、厄介な愛社精神とでも言えばいいのだろうか。往々にして彼らの関心は、新しいものを生み出そうとするよりも「朝日を正したい」とか、「朝日ではここまでできないぞ」といったことに向かう。
この本が連なるのは著者の言う「朝日関係者の朝日関連本」ではなく、私が目にしてきたねじれた愛社精神と近い。本書は著者が「朝日新聞への挑戦」と意気込んで書いた時事評論である。憲法9条、原発問題、天皇制、沖縄、フェミニズムといった主題について、朝日新聞などリベラル派の主張の欺瞞を突く論考が並ぶ。主張そのものについて言えば、私と著者の考え方は近い。例えば改憲派への防波堤機能を皇室に求めるようなリベラル論客にはうんざりするし、護憲論の欺瞞もよく分かる。
記者にとっても「論」が必要という主張も全くそのとおりだ。それだけに本書にとって致命的なのは、彼の「論」の中にさほどのオリジナルの要素があるとは思えないことだ。なるほど、著者は新聞記者の中でも、かなりよく本を読んでいる。おそらく、1980〜90年代にかけての論壇で活躍した柄谷行人ら知識人の本を丁寧に読み込んでいるのは、参考文献から察することができる。
文章から甘えがにじみ出る
だが肝心の切り口は、朝日新聞が出版していた論壇誌で、雑誌の形では2000年代になくなってしまった「論座」で試みられてきた「リベラルを問い直す」的な企画の焼き直しではないか。論全体が「論座」リバイバルになってしまっているのだ。
加えて気になったのは、文章からにじみ出ている「甘え」である。「朝日新聞記者なのに、ここまで書くことができた」ことを誇っている印象が拭い切れない。あえてきつい言い方をすれば、この程度のコラムを書いたところで社員記者がクビになることはない。それは著者自身もよく分かっているはずだ。
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