<ラマダン後、取材していたレバノン・ベイルートのパレスチナ難民キャンプで銃撃戦が起こった。なぜ難民キャンプの中で無法集団がのさばっているのか>

私は6月半ばから、レバノンのベイルート南郊にあるパレスチナ難民キャンプ「シャティーラ」に通って取材をしている。6月下旬まではラマダン(断食月)で人々は日の出から午後7時過ぎの日没まで飲食を断つ。インタビューは空腹感が増す午後の遅い時間を避けると、午前中か午後の早い時間にするしかない。

しかし、人々は夜遅くまで起きていて、日の出前に食事をとって寝る。朝のスタートも遅い。ラマダンの間は昼間にインタビューをするのはきわめて効率が悪い。

ラマダンが6月24日で終わり、27日まで3日間の「イード・アルフィトル(断食明け大祭)」となった。休みが終わったら取材をもっと効率的にできると思った矢先に、難民キャンプで事件が起こった。

大祭の最終日の27日夕、シャティーラキャンプで激しい銃撃戦があり、3人が死んだ。うち2人はキャンプで抗争するオッカルとバドランという2つのパレスチナ人家族の人間で、3人目は銃撃に巻き込まれた8歳の少女だった。

銃撃戦は午後7時からキャンプの南側の通りで始まって、オッカル家の長男と、バドラン家の父親が死んだ。一度収まったが、午後9時に再燃した。地元紙の報道では抗争で携帯型のロケット弾が使われたとされる。カフェが黒こげになっていたのはそのためと見られる。

私は翌28日の朝に銃撃戦のことは知らないで、予定していた難民のインタビューをするためにシャティーラキャンプに入った。キャンプ内にある政治組織の事務所の前ではパレスチナ人が自動小銃を持って警戒にあたっていた。

キャンプにいる知り合いから前夜の激しい銃撃戦について聞いた。「昨日はシャティーラの住民は誰も寝ていない」と語った。訪れる予定だったNGOの事務所はすべて鍵がかかっていた。

衝突があった通りに行った。パレスチナ人が自動小銃を構えて治安維持にあたっていた。

通り沿いに真っ黒に焼け焦げた建物があった。抗争によって殺害されたバドラン家が所有するカフェだ。焼き討ちされたという。私が写真を撮っていると、私服の男が「お前はどこのメディアだ」と鋭く声をかけてきた。

私を案内していたパレスチナ人が「この男は日本人だ。●●の取材に来ている」とパレスチナの政治組織ファタハに近いNGOの名前を言ったところ、私服の男は引き下がった。レバノンのテレビ局も取材に来ていたが、あたりはぴりぴりとした緊張に包まれていた。

オッカル家とバドラン家はシャティーラキャンプでも人数が多い大家族である。オッカル家の長男は右肩にびっしり入れ墨をいれている写真がインターネットで出回っており、レバノンの地元紙によるとレバノンの警察から麻薬や武器の売買で指名手配を受けていたという。

両家族は最近まで協力関係にあったが、いきなり抗争が始まったようだ。数日前にバドラン家によってオッカル家の次男が足を傷つけられ、今回はその報復だったという。

軍や警察は中に入ってこない