放送大学の「日本美術史」の試験問題に安倍政権を批判する文言が用いられたことを受けて、大学は該当部分の問題文を学内専用サイトから削除してしまった。「現在の政権は、日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。平和と自国民を守るのが目的というが、ほとんどの戦争はそういう口実で起きる」などの記載が問題視されたが、自衛が戦争を呼び寄せてきたのは、確かな史実である。
こういった事例の度に繰り返される言い分が、放送法にある「政治的中立性」だ。今回も、「放送法の規制を受け、一般大学より政治的中立性を配慮しなければならない」(来生新・放送大学副学長/東京新聞10月21日朝刊)との弁解が出ているが、すんなりとは受け止められない。
「放送法」が定める政治的中立性。具体的な文言としては第4条「放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない」の2項目「政治的に公平であること」による。
この第4条には4項目が併記されており、その4つ目には「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」とある。一つ前の第3条には「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」ともある。そもそも第4条の「公平であること」と「多くの角度から論点を」の双方をクリアするのは難儀である。角度をいくつも投入すれば、どうしたってバランスは崩れてくる。しかし、この2つを天秤にかける前に、安っぽく「公平」を優先してしまう。
放送だけではない。放送大学副学長の言葉を逆説的に借りるならば、放送大学よりも「政治的中立性に配慮する必要のない」はずの立教大学は、「岐路に立つ日本の立憲主義・民主主義・平和主義 ――大学人の使命と責任を問い直す」という名のシンポジウムの会場使用を拒否した。政治的である、という理由だが、そんな判断が学び舎で下されるならば、政治的ではない学問とは一体どこにあるのか、ご教示願いたい。日頃の講義で、教授が見解を述べ、生徒が反応する。こうして持論を大勢に投じること、引き受けて学ぶことは、常に政治性を帯びているのではないか。特定の思想を強いるのは問題だが、誰かが持つ思想を投じることを安易に手放しすぎではないか。