夫婦の亀裂に込められた「沈黙のユダヤ人」に関わる深い意味

では、ルーマン監督はなぜ自分の少年時代ではなく、彼の両親やそれより上の世代の体験に光をあてることにしたのか。そこには、深い意味が込められている。

ヴィクトルとラヤの第二の人生に対する考え方にはズレがある。ラヤはそれを、新しいことを始める機会ととらえている。これに対してヴィクトルは、声優業に固執する。彼は自分の吹き替えに誇りを持ち、評価もされ、特にフェリーニに傾倒している。

しかし、彼が固執する理由を映画愛だけだと思ってしまうと、本作の魅力は半減する。見逃せないのは、本作に巧妙に埋め込まれた伏線だ。70年代にイスラエルに移住し、映画業界で働くヴィクトルの友人は、久しぶりに再会した彼に、吹き替えの代わりに新設されたばかりのロシア劇場の仕事を紹介しようとするが、彼は二の足を踏む。その後の夫婦のやりとりで、実は彼が昔、舞台に憧れていたことがわかる。

ヴィクトルはなぜ舞台を諦め、声優になったのか。そのヒントは、まともな仕事が見つからないヴィクトルが、妻に内緒でロシア劇場のオーディションを受ける場面で示される。彼はマーロン・ブランドになりきって、『波止場』の一場面を演じる。それを見た舞台監督は、今度はブランドふうではなく、自分の思う通りに演じるように指示する。すると彼は黙り込んでしまう。

この舞台をめぐる伏線はなにを意味するのか。キーワードになるのは「沈黙のユダヤ人」だ。前掲書ではそれが以下のように説明されている。


 「旧ソ連出身の移民は、イスラエル史上最低と言えるほどにユダヤ人という自覚が薄い。帝政ロシアでも、共産党政権時代にも、反ユダヤ主義が政府の公式方針だったからだ。攻撃的な無神論が支配していた七〇年間、ボリスの一家のような、『沈黙のユダヤ人』と呼ばれる家族が何百万もあった」

ヴィクトルの場合は、ユダヤ人の自覚が薄いわけではない。彼のソ連時代の境遇は、「いつも心はユダヤ人だった。家ではイディッシュ語だしな」という台詞に端的に示されている。まさに「沈黙のユダヤ人」といえる。

それを踏まえるなら、ヴィクトルがなぜ舞台を諦め、吹き替えに固執するのかも容易に察することができるだろう。舞台では、ユダヤ人である自分を表現することはできない。だから、声優として他者になりきることにのめり込んできた。突き詰めれば、ラヤは、他者になりきることに囚われた夫と生活を共にしてきたことになる。

つまり、夫婦の亀裂には、「沈黙のユダヤ人」に関わる深い意味が込められている。ルーマン監督は、自分よりも上の世代の移民の複雑な心理をよく理解し、ソ連時代の呪縛から解き放たれていく夫婦の姿を実に鮮やかに描き出している。

動画:『声優夫婦の甘くない生活』予告篇