書くことで過去は変えられる:書くという「ケア」
私たちはなぜ書くのか。今、多くの人がなぜ、必要に迫られない文章など書いているのか。もちろんいろんな目的があるが、ひとつには、文章が、生きていく上でどうしても避けられない「悲しみ」を乗り越え、やりきれない「過去」を塗り替えてしまう力を持つためかもしれない。
社会のシステムや、所属する組織の不条理な力学に押しつぶされ、生活にあえぎ、感情の澱(おり)が胸に溜まるときがある。そのようなときには、書く。
言葉で像を結ぼうとするその頭で、もはや「嘆く」ことはできない。「悲しい」という言葉では表せない悲しさを、なにか別の言葉に結晶させようとしているそのときに、人は、同時に悲しめない。悲しさを、いったんわきに置かなければ、言葉は現前しない。
――第24発 書く、とは:わたしは、書かなければならない。
感情に飲まれそうなときに、書く。書くことで、過酷な現実や悲しみを一歩引いて客観視する。書かれることで、現実や悲しみは「言葉の結晶」へと姿を変えていく。書くことで、過去を変える。文章を書くとは、再び自分の足で立つための、孤独で、しかし力強いケアである。
もがき続けることで、あなたは「書き手」になる
本書を読んだところで、明日から突然、「うまい文章」がスラスラと書けるようになるわけではない。むしろ、生きることの意味までを容赦なく問われる本書によって、凡庸な自分に直面し、「自分には才能がない」と戸惑うようなことがあるかもしれない。「解説」でラランド・ニシダ氏が書いたように。しかし、本書を読むことで、必ず「いい文章」を書く武器は手に入る。
著者は「はじめに」で、こう予言している。
猟も、文章も、どちらも、〈生〉に直結しているからです。〈命〉に関わることだからです。文章を書くとは、考えること。文章を書くということは、すなわち生きることだからです。
――はじめに
満足がいく猟果は得られるかどうかわからない。それでも、書き続けていく。自分になるために。
自分に弾丸が残っているかどうか。その確信など、ありはしない。だが、たとえ虚勢であったとしても、捨て台詞を吐いて死ぬ「かばちたれ」でありたいというかっこうつけだけは、どうやらくすぶっている。弾丸はまだ残っとるがよう。
――文庫版おわりに
本書は、書くことの絶望と希望を知り尽くした一人の人間が、それでもなお、言葉の力を信じ、文章を書くすべての人に問いかける、魂のアジテーションだ。

近藤康太郎(こんどう・こうたろう)
作家/評論家/百姓/猟師 1963年、東京・渋谷生まれ。1987年、朝日新聞社入社。川崎支局、学芸部、AERA編集部、ニューヨーク支局を経て、九州へ。新聞紙面では、コラム「多事奏論」「吉田純子と近藤康太郎の 音楽閑話」「アロハで猟師してみました」を担当する。
著書に『三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾[増補版]』『百冊で耕す〈自由に、なる〉ための読書術[増補版]』『ワーク・イズ・ライフ 宇宙一チャラい仕事論』(CEメディアハウス)、『アロハで田植え、はじめました』『アロハで猟師、はじめました』(河出書房新社)、『「あらすじ」だけで人生の意味が全部わかる世界の古典13 』(講談社)他がある。
Jリーグ発足後、飛躍的に進化した日本サッカー。W杯の頂点に挑み世界を驚かせる時が来た


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