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アダム・ランバート(左)をボーカルに迎えたコンサート(2019年) BOJAN HOHJNEC

フレディは歌が下手だった?

メイとテイラーは大学時代に出会い、スマイルというバンドで活動していた。そこにマーキュリーが加わり、70年にクイーンが誕生した。

「ロジャーも私も初対面でフレディが気に入った」と、メイは振り返る。「やけに威勢がよく、自信満々な男でね。ショーマンシップは抜群だが、歌唱力は疑問だった。フレディは自在に声を操ることでロックの神になったが、当時はまだ声がコントロールできていなかったんだ。だが彼は乗り気だったから、一緒にやってみることにした」

テイラーも証言する。「フレディにあれほどの感性と曲作りの才能があるとは知る由もなかった。でも彼は一緒にいて楽しい奴で、初期のバンドを引っ張ってくれた」

71年にディーコンが参加し、4人組としてレコード会社EMIと契約。74年にロックバンド「モット・ザ・フープル」の前座を務め、「キラー・クイーン」がヒットすると、一気に知名度が上がった。

「ファンが増えたことを実感した」と、テイラーは言う。「ライブでは粋がってみせたし、パフォーマンスの才能はあった。だが自分たちには実力があり、本当にいい音楽をつくることができると思えたのは2、3枚目のアルバムを制作していた頃だ」

75年には4枚目の『オペラ座の夜』とここからシングルカットされた「ボヘミアン・ラプソディ」が売れに売れて、スーパースターへと脱皮。ロックとオペラを融合した全長約6分の同曲は画期的なミュージックビデオも注目され、全英チャートで9週間トップに君臨した。

「フレディが書いた『ボヘミアン・ラプソディ』を完成させようと、4人とも全身全霊で挑んだ」と、メイは語る。

「フレディとロジャーとジョンがスタジオでバックトラックを録音する様子をコントロールルームで見ながら、よし、俺もあそこに入って最高のプレーを聞かせてやると意気込んだのを覚えている」

「オペラ的な部分がどうなるのか(最初は)よく分からなかった」とテイラー。「でも『ママ、人を殺してきたよ』というフレーズを歌ってもらったとたん『これはいい曲だ』と思った」

この後、クイーンは続けざまにアルバム(『華麗なるレース』や『世界に捧ぐ』『ジャズ』)やシングル(「愛にすべてを」や「ドント・ストップ・ミー・ナウ」など)をヒットさせた。イギリスやアメリカ、日本でのコンサートツアーも行った。

目立つ衣装と強気のパフォーマンスで、マーキュリーはセレブの仲間入りをした。奔放な生活を送ったが、性的指向についてはメディアが臆測するに任せた。当時、マーキュリーはこう語っていた。「スターになるつもりはない。伝説になるんだ」

「ライブ・エイド」の栄光
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