初子さんは10歳のとき、沖縄戦を体験した。家族とともに壕を転々とし、集団自決が始まった壕から、父の判断によって外に出たことで生き延びた。生と死を分けたのは、「死にたくない」という、幼い初子さんの率直な叫びだった。のちに初子さんは「家族のために神様が言わせてくれた言葉だったのかもしれない」と振り返る。

戦後、米須一帯には無数の遺骨が散乱していた。故郷に戻れなかった人々がテント生活を送るなか、村長の呼びかけによって遺骨収集が始まる。人々は4カ月にわたり、3万5000柱に及ぶ遺骨を拾い集め穴を掘って納めた。その過程で彼らは、遺骨に対して声をかけ続けたという。

「これからあなたを拾い上げ、安全な場所へご案内します」。遺骨を物として扱わず、最後まで人格を持つものとして接するこの態度は、慰霊を単なる追悼儀礼ではなく、心からの弔いとして位置づける行為にほかならない。こうして沖縄戦の死者を弔う最初の慰霊塔とされる魂魄之塔は誕生した。沖縄の人々が今でも最も大切にしている慰霊碑のひとつだ。

初子さんは、その魂魄之塔の横で花を売り続けてきた。道ばたで摘んだ花であっても、終戦まもない頃には飛ぶように売れたという。やがて夫の農業を手伝いながら6人の子どもを育て、今は13人の孫と19人のひ孫に囲まれる人生を歩んでいる。

戦争を生き延びたからこそ、いまの幸せがある。その思いが、彼女の手渡す一輪一輪の花に込められている。花は商品であると同時に、死者と生者を媒介する象徴でもある。供えられた花はやがて枯れ、土に還る。

しかしその反復は、死者を忘却へ追いやるのではなく、記憶を現代に生きる人の心に呼び戻す。ことさらに声を上げるわけでもなく、花を売り、お参りに訪れる人たちと会話する初子さんの日々こそが、慰霊そのものといえるのかもしれない。

「元気な人が花を供えて、魂を静かに眠らせてあげてほしい。そして二度と戦争がないように。亡くなった人たちも、きっとそう願っているはずです」

一方で摩文仁には、いまも異なる慰霊の形が併存している。肉親の死を悼む沖縄の人々、元日本軍兵士、旧日本軍司令官を顕彰する自衛隊員たち、アメリカ軍関係者、朝鮮半島から動員された人々の遺族。

それぞれの祈りは同じ場所に集いながら、必ずしも交差しない。この非対称性は、戦後80年を過ぎたいまも、沖縄が引き受け続けている構造的な問題を映し出している。

そして近年、SNSで呼びかけ合い本土から集まった人々が、早朝の摩文仁で、旧日本軍司令官・牛島満を顕彰する「黎明之塔」の前に立ち、日の丸を掲げ軍歌「海ゆかば」を斉唱する光景を目にするようになった。その輪の中には、戦争を直接知らない世代である若者の姿も少なくない。

沖縄戦において、日本軍司令部が下した「南部撤退」という作戦が、結果として多くの住民を戦闘に巻き込み、死へと追いやったことは、数多くの証言によって繰り返し語られてきた。

沖縄の人々は、そうした経験の蓄積を通して、「軍隊は住民を守らない」という、重く、しかし避けがたい教訓を胸に刻んできたのである。だからこそ、軍を顕彰する行為が、その記憶を無造作に踏み越えるとき、強い反発が生まれる。