司馬こと福田定一は、1923年大阪市生まれ。1943年秋、大阪外国語学校から学徒出陣で陸軍に召集され、翌年に旧満州(現中国東北部)の戦車部隊に配属された。

敗戦間際の1945年春、部隊は栃木県の佐野に駐屯した。米軍が東京湾や相模湾から上陸してきた場合、南下して迎え撃つためだった。部隊は日本軍にとって「虎の子」の戦力だった。

しかし、福田少尉は決戦を前にある疑問を抱いていた。「東京方面からの避難民とかち合い、混雑するかもしれない。その時、どうしたらいいのか」。福田少尉にそう問われた「大本営の人」は<轢(ひ)っ殺してゆけ>と言い放った(「石鳥居の垢」)。

戦争で死ぬ。何のために? 当時の多くの青年が答えを探していた。日本を守る、子どもたちを守る。司馬は、そんな気持ちだったことを、他のコラムなどで書き残してもいる。ところが、「ひき殺してゆけ」だ。

<われわれの戦車はアメリカの戦車にとても勝てないが、おなじ日本人の大八車を相手になら勝つことができる。しかしその大八車を守るために軍隊があり、戦争もしているというはずのものが、戦争遂行という至上目的もしくは至高思想が前面に出てくると、むしろ日本人を殺すということが論理的に正しくなるのである> (同) 

13歳だった私はこれを読んで衝撃を受け、戦争に強く興味を持った。高校に進学してからは五味川純平や城山三郎ら戦争体験者の作品を読み込んだ。大学・大学院では近現代史を学び、1996年に毎日新聞社に入社した。20年以上、日本近現代史ことに戦争に関する事柄を取材し、執筆している。

さて、「ひき殺してゆけ」のエピソードに対しては、「本当にそんなことがあったのか」という疑義が、元軍人や研究者らの間に根強かった。新聞記者になった私は真偽を確認すべく、戦史の専門家に取材し、関連資料を調べるなどした。その結果、「ひき殺してゆけ」は、「創作だったのかも」と感じている。

ただ、「似たようなことは、あったのかもしれない」と思わざるを得ない事例がある。たとえば沖縄戦だ。日本軍が、守るべき住民を死に追いやることがあった。

司馬は<沖縄における特殊状況だったとどうにもおもえないのである。米軍が沖縄をえらばず、相模湾をえらんだとしても同じ状況がおこったにちがいなかった>(同)としている。

「8月ジャーナリズム」はしばしば、戦争を「昔話」として扱う。なるほど、戦闘は1945年夏、大日本帝国が連合国に降伏して終わった。しかし戦争被害は終わらず、現在にまで続いている。

例えば日本人の戦没者100万体以上の遺体・遺骨が行方不明だ。あるいは「官尊民卑の戦後補償」。敗戦後、政府は元軍人・軍属や遺族らには累計60兆円の補償や援護を行ってきた。

しかし、民間人被害者には「政府が雇ってなかったから」と、補償を拒否。納得できない被害者たち、90歳前後の高齢者たちが今も国に補償を求めて闘っている。広義の戦争は続いているのだ。