<時代と国境を越えて流通した漢字から日本語、そして日本を再考する。『アステイオン』104号の特集「漢字・漢語・漢文──文明から考える」の巻頭言より>
「學而時習之、不亦説乎」。「南無阿弥陀仏」。前者は中国・漢語、後者はインド・サンスクリット語。しかしわれわれは、ほぼ必ずといってよいほど、これを日本語として読む。「学びて時に之を習う、また悦(よろこ)ばしからずや」。「ナムアミダブツ」。これでありがたい意味が通じる。
知っていさえすれば、一目でわかるので、とても便利だ。便利なのは、漢字・漢語の効用でもあり、害悪でもある。両方ともこれだけで、ほんとうの意味が理解できたであろうか。そう考えてみると、漢字はどうも通貨・お金に似ている。一定の範囲なら、どこにいっても、モノが売り買いできて、とても便利である。
しかしそのほんとうの価値や意味を知って使っている当事者は、ほとんどいないし、またおよそ誰も考えようとすまい。同じ米ドル紙幣でも、日本とアメリカでは買えるものの価値がちがうし、それも絶えず変動する。そもそも同一物を指していても、「ドル」とdollar、字形も発音も同じでない。現在ですらそうなのだから、過去はいよいよ然り。
「ドル dollar」とは、もともと円(まる)い銀コインの名称だった。16世紀の大航海時代から存在する。それが北米でアメリカ・ドルになり、東アジア漢語圏では円形なので「圓」と表記された。近代以後の通貨、日本の「円Yen」・中国の「元Yuan」・韓国の「ウォン원」も、すべてその「圓/ドル」に由来する。
漢字全体にもおそらく、こうした貨幣と同様のことがいえる。日本語を表記するばかりではない。現在も中国語を表記する文字であり、かつては朝鮮半島でもべトナムでも用いた。しかも「学びて時に之を習う、また悦ばしからずや」の『論語』など、日中ばかりでない共通の古典もある。「南無阿弥陀仏」などの仏典も含めれば、空間的にも時系列的にも、いよいよその範囲はひろがるにちがいない。
それなら漢字・文字の外形は同じでも、各々が有する意味は互いに異なってくる。日本でも中国でも、古代でも近代でも、漢字ほど字形の変わらなかった文字も少ない。だからこそ、いよいよ相違もきわだつ。
あらゆる世界の文字・書記言語で、漢字・漢語はすぐれてユニークであると同時に、われわれ日本をふくむ東アジアに甚大な影響を与えてきた。漢字を排除した国も多い一方で、日本語はいまなお不可欠な一部をなしている。そのため日本人はあたりまえと考えがちながら、あらためて自他を考える上で、最も重要な題目たるを失うまい。
日本語は漢字から大きな影響を受けて発達した。しかしまた日本語が、オリジナルの漢語、およびその周辺に少なからぬ影響・変容をおよぼす、逆のベクトルもなかったわけではない。
その日本語に典型的なように、同じ漢字を使っても、時と所、場合によって、発音がちがう。意味もピタリと重ならない。そうしたプリズムが放つ光のように変幻する様相は、およそ日本にとどまらない事象だろうし、日本だけでも時期によって、様相を異にする。
それなら漢字・漢語を広く長く考えることは、われわれの立ち位置をみなおすことにもひとしい。さらに日本と世界の各地・各国の歴史・文化を考察することにもつながるだろう。
もともと文字のなかった日本語の表記。インドの宗教だった仏教経典の翻訳。各地の言語文化との関係。いまも列島・大陸に残存する漢字・漢語の運命。漢字・漢語のプリズム的な役割・影響は、現在にいたるまで東アジアにひろがり、独自の文明・世界を形づくってきた。
欧米語に起源するグローバル世界・IT化の急速な拡大・浸透がすすむなか、漢字・漢語となお不可分な日本語・日本人の今昔・未来は、いったいどうみればよいのだろうか。あらためて考える契機にしたい。
岡本隆司(Takashi Okamoto)
1965年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。宮崎大学教育学部講師、同教育文化学部助教授、京都府立大学文学部教授などを経て、早稲田大学教育・総合科学学術院教授・京都府立大学名誉教授。専門は東洋史・近代アジア史。2025年、紫綬褒章受章。著書に『世界史序説』(筑摩書房)、『属国と自主のあいだ』(名古屋大学出版会、サントリー学芸賞)、『物語江南の歴史──もうひとつの中国史』『二十四史──『史記』に始まる中国の正史』(ともに中公新書)など多数。