<戦後80年を過ぎた今、「戦中派」の精神史を追うことで、戦争を支えた心情と日本社会の変質を読み解く>
戦後80年。「戦前派」や「戦後派」は、遠い言葉になった。本書『戦中派 死の淵に立たされた青春とその後』 (前田啓介著、講談社現代新書)のタイトルである「戦中派」においておや。しかし、人々はどんな思いで戦地に向かったのか。なぜ戦争を回避できなかったのか…。
多感な時代に出征し、戦死者も多く出した「戦中派」の心情がその解き口となる。いま注釈なしで、戦中派と言ったが、そもそも「戦中派」というカテゴリーはいつ誰によって提起されたのか。
戦中派とは
戦前すでに年嵩の成人だった「戦前派」や戦後に思春期をむかえた「戦後派」という言葉は、「アプレゲール」(のし歩く戦後の若者世代)などとともに、戦後すぐに登場した。しかし、そのはざまにあり、「決死の世代」や「散華の世代」ともいわれる「戦中派」という用語が発見されたのは、ずっと遅い。
『中央公論』1956年3月号の座談会「戦中派は訴える」や同誌4月号の村上兵衛「戦中派はこう考える」が初出といわれてきた(*1)。しかし、戦中派というカテゴリーが戦後十年以上もたって発見されたということには、ずっと違和感があった。本書は評者の喉に刺さった小骨を除いてくれた。
著者は、「戦中派」という言葉の初出は通説よりも6年も遡る1950年だと言う。『関西経協』という関西財界人雑誌(同年一月号)に掲載された「迎二五年『戦中派』宣言」と題するエッセイを挙げる。エッセイの著者は森下仁丹社長を継いだ森下泰(1921~87)。
森下は、京都帝大を繰り上げ卒業し、海軍経理学校を経て、海軍艦政本部に出仕していた。思春期を戦争に翻弄された世代として、戦後派はもとより戦前派とも異なる「戦中派」という「世代規定=自己主張」を提起したのである。大発見である。
つぎに著者が取り組んだのが、戦中派の生年の上限と下限。大正末年から昭和はじめに生まれた世代といったざっくりとした定義。生年幅が示されてもまちまち。なぜ、その生年幅が戦中派の上限や下限なのか。根拠も明確ではなかったからである。
本書は戦中派が思春期と戦争が重なった世代であることを前提にしつつも、日米開戦時の年齢が18歳をすぎており、戦争がなかったら戻りたかった時代と空間があったことを重視して、上限を大正6(1917)年、下限を昭和2(1927)年生まれ、つまり敗戦時で28歳から18歳までとする。
さらに、戦中派の核(典型集団)を大正9(1920)年から大正12(1923)年生まれとする。在学徴兵延期停止による学徒出陣者を含み、戦死が最も多かった年齢集団である。
死んだアイツにすまない
このように戦中派の外延と内包を確定して、書かれた資料はもとより、公刊されていない貴重な日記の読み取り、全国各地に出向いての聞き取りがなされる。
戦中派の生育期である「前夜」(第2章)、「戦場への道」(第3章)、「戦後」(第4章)、「高度経済成長」(第5章)、そして「戦中派の余生」(第6章)へと続く。戦中派の精神史が個別具体的にたどられる。
予科練を志願した著者の母方祖父や関東軍に所属した父方祖父を研究の原点とし、随所でそこに立ち返る記述スタイルがリアリティの厚みを増している。
本書の圧巻部は、”アイツが死んでオレが生きたのはなぜなのか”から生じる「サバイバーズ・ギルト」(生き残った罪悪感)に焦点が合わされた第4章以後。死んだアイツにすまないなど、戦後の生き方を律する戦中派の思いが深堀りされる。