こうした背景を知れば、モディ首相がカリブ海在住のインド系の人々を「ラーシュトラドゥート」と称えたことが、いかに象徴的であるかがわかるだろう。

かつてタブーとされ、信仰上の喪失を意味した「カラ・パニ」の渡航を、インドを代表する使者たちの勇敢な旅として歴史に位置づけ、その苦難の経験に光を当てるものなのだ。かれらの「カラ・パニ」を渡った記憶は、カリブ海の複雑な歴史に、決して忘れ去られることのない重要な一章を刻み込んでいるのである。

カリブ海思想において、インド人年季奉公労働者の子孫であるアンドレ・バグー、フェイザル・ディーン、ラマバイ・エスピネ、そしてアイーシャ・カーンといった文学者・思想家たちが、インド系の経験にもとづき果たしてきた貢献は、日本でも今後知られてゆくべきである。

かれらが織りなす「カラ・パニ詩学」(kala pani poetics)は、単なる文学的な動きのみに留まらない。それは、あの「黒い水」を渡り、見知らぬ土地で新たな生活を築き上げてきたインド系の人々の記憶と経験を包括する、カリブ海思想のさらなる転回を象徴しているのだ。

かれらの語りに耳を傾けることは、カリブ海という多様で複雑な世界を真に理解するために、不可欠な一歩と言えるだろう。
 

中村達(Tohru Nakamura)
1987年生まれ。西インド諸島大学モナ校人文教育学部英文学科博士課程修了。PhD with High Commendation(Literatures in English)。専門は英語圏を中心としたカリブ海文学・思想。主な著書に『私が諸島である──カリブ海思想入門』(書肆侃侃房、サントリー学芸賞)、『君たちの記念碑はどこにある?──カリブ海の〈記憶の詩学〉』(柏書房)など。
 

 

 『アステイオン』103号

 公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会[編]

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