パサード=ビセッサーによる政権が始まって2カ月が過ぎた頃、7月3日から4日にかけて、インドのナレンドラ・モディ首相がトリニダード・トバゴを訪問した。インドの首相によるトリニダード・トバゴへの訪問は、26年ぶりのものであった。

滞在中、モディ首相はトリニダード・トバゴのインド系住民が「インディアン・ディアスポラ」(すなわち海外に住むインド系の人々)として、インドの文化や価値観を継承しつつトリニダード・トバゴ社会に貢献していることを称賛した。

そして、かれらが祖先の地インドにとっても重要な存在であることを示すため、ヒンディー語で「国の使者」という意味を持つ「ラーシュトラドゥート」(Rashtradoot)という言葉で、モディ首相はかれらを称えたのだった。

この「ラーシュトラドゥート」たるインド系の人々が、カリブ海思想の形成にどれほど大きな貢献を果たしてきたかをご存知だろうか。

残念ながら、日本におけるカリブ海思想研究は、アフリカ系の思想に偏っている。カリブ海の思想といえば、エメ・セゼール、フランツ・ファノン、エドゥアール・グリッサンといった名前が頭に浮かぶだろう。かれらの著作は日本語にも翻訳されており、研究も進んでいる。

中でもセゼールがフランス領ギアナ出身のレオン・ダマス、セネガル出身のレオポール・サンゴールらとともに提唱した「ネグリチュード」(Négritude)は、黒人に対するヨーロッパの差別主義への抵抗を美学的・政治的に表現した思想として、日本でもよく知られている。

ネグリチュードは、長い間白人によって劣った存在として扱われてきた黒人が、黒人であることのアイデンティティを再構築する運動であった。セゼールらアフリカ系知識人たちは、作品を通じてアフリカ的な遺産を呼び起こし、黒人間の連帯にもとづく自分たちの人間性を主張した。

しかし、カリブ海にはアフリカ系の人々だけでなく、インド系の人々も生活を営んでいる。かれらの視点から見れば、アフリカの遺産を称揚するネグリチュードは、必ずしも自分たちの経験やアイデンティティを包括するものではなかった。

カリブ海の国々では、アフリカ系とインド系の民族グループの間で政治的な対立が顕在化することも少なくない。トリニダード・トバゴでは、アフリカ系政党の人民国家運動とインド系政党の統一民族会議が長年にわたり政権を争ってきた。

今回の選挙でパサード=ビセッサーが首相に就任したことも、単なる政権交代ではなく、カリブ海におけるインド系の影響力の大きさを示す出来事なのである。

かれらが思想的に、そして政治的に、カリブ海社会の形成に深く貢献してきた事実は、ネグリチュードのようなアフリカ系に偏った思想だけではカリブ海の全体像は語れないことを示唆している。