「いい娘(こ)」でなんかいなくていい、「生意気な女」になって自由に生きようと呼びかけるこの本で、心理学者であるエーアハルトは女性のことば遣いについて、次の一文を皮切りにいくつもの興味深い指摘をしています。

お行儀のよい娘は口にしない一連の言葉がある。すでにここで言葉のうえでの制約がはじまっている。言葉づかいにおいても女性は微妙にへりくだっている。

その微妙さゆえに、これを正確にあぶりだすことはむずかしいが、実はこれは非常に大きな影響力を持っているのだ。

女とことばの問題は日本だけではない──

わたしは大きな衝撃を受けました。1960年代後半にドイツに留学し、フェミニズムの台頭を目の当たりにしたわたしは、ドイツの女性は日本の女性よりずっと自立しているとばかり思っていたからです。

どうやらこれは思っていたよりずっと厄介な問題らしい......わたしはため息をつき、そんな思いを抱えたまま、ふたたび仕事の日常へと戻っていきました。

それから幾星霜(いくせいそう)。ドイツの日本文学研究者であるイルメラ・日地谷゠キルシュネライトの論考『性別の美学』を手にしたわたしは、長年澱(おり)のように心に溜まっていた問い「日本にはなぜ女ことばがあるの?」にひとつの答えを見出しました。

『性別の美学』は、日地谷゠キルシュネライトが日本の女性作家たちと対談した記録『〈女流〉放談──昭和を生きた女性作家たち』に収録されたもので、そのなかで彼女は、かつて日本で暮らしたときに味わった困惑について次のように回想しています。

日本に来て日々驚かされたのは、日本社会においては人々の行動規範や自己理解や世界観が当たり前のように性別の違いによって区別され、美学化されている様子であった。

このような日本人独特の意識・価値観を、日地谷゠キルシュネライトは「性別の美学」と名づけました。

でも......彼女の困惑はこのときが初めてだったのでしょうか。いや、ずっと以前、日本語を学び始めたときにそれはすでに始まっていました......ほかでもない「女ことば」の存在です。

長い間、なぜ、私は、クラスメートの男子と同じように「腹が減った」とは言えずに、「お腹が空いたわ」と女性用のやわらかい表現を使わなければならないのか、理由がまるで分からなかったのだ。

この論考に触発され、わたしはかつて自分の大きな関心事であり、いまも変わらず使っている女ことばについて、その歴史的背景をも含めてじっくり考えてみたいと思うようになりました。

日本人のなかに深く刷り込まれている「性別の美学」
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