<マイノリティではなく「マジョリティへの理解」を求める悪法がLGBTにとって意味する世界を描く>

*若干のネタバレあり

是枝裕和監督の最新作『怪物』が現在、全国の映画館で上映されている。この映画はカンヌ国際映画祭に出品され、脚本賞とクィア・パルム賞の二冠を受賞した。6月16日に成立したLGBT理解増進法が、当初の内容を大きく後退させ、これでは反LGBT法だという当事者の声もあがる中、マジョリティの無知がもたらす残酷さを描いたこの作品は、我々にこれでよいのかというメッセージを突きつけている。

クィア映画としての『怪物』

『怪物』は、LGBTやクィアといった性的少数者を扱ったクィア・パルム賞を受賞しているにも拘らず、公式でクィア映画であることをはっきり打ち出していないことに批判がある。

確かにこの脚本のギミック上、公開前にクィアというキーワードを隠したかったのは理解できる。しかし少なくとも映画が公開されて以降は、クィアというテーマを全面に打ち出したほうがよいだろう。もしアメリカやヨーロッパでこの作品がつくられていたなら、監督も脚本家もはっきり「これはクィア映画だ」と述べていたはずだ。

『怪物』では、クィア当事者が過酷な状況に置かれる。とはいっても、この映画では性的少数者を露骨に差別し攻撃する人物は、一人しか出てこない。むしろほとんどの登場人物は一般的な意味では善人と呼んで差し支えない。そのような善人たちがまったく無自覚に、当事者にダメージを与え続けるのだ。たとえば良かれと思って「普通」の家庭を目指したいと述べてしまう母親。何気なく「男らしくない」という言葉を使う教師。「男同士」が付き合うことを揶揄する子どもたち。「オネエ」タレントを面白キャラとして扱うメディア。そして何の悪意も持たず、その真似をする大人や子供。

こうした登場人物たちは、無知やそれに起因する配慮のなさのために、無自覚な加害者になってしまっている。かれらは、そのような知らぬがままに犯してしまった罪によって、最終的に取り返しのつかない罰を受けてしまうのだ。

この映画はもちろん、よくできたフィクションにすぎない。だが、日本でLGBTやクィアといった性的少数者がおかれている状況の一面も表している。映画の登場人物たちにLGBTやクィアについての知識が少しでもあれば、当事者が当事者だと気づかなくても、言葉遣いや態度が変容することによって、無自覚に当事者を傷つけることはしなくてよかったかもしれない。それによって、映画の結末も変わっていただろう。

「理解増進」の必要性を暗示
【関連記事】