従って、もしこの事件が後年歴史の教科書に載るとしても、それは「民主主義の危機」というキーワードとは別の現象として載ることになるだろう。それでは民主主義は危機に陥っていないといえるのか。
国家権力であれテロリストであれ、政治的な違いを暴力で解決しようという勢力が台頭してきた結果として一人の政治家の生命が失われたなら、それを民主主義の危機と呼ぶことは妥当だろう。しかし、理由を問わず、単に一人の政治家の言論が突如失われたこと自体を民主主義の危機と捉えるのは誤りだ。たとえば不幸にして突然の病で政治家が亡くなった場合は民主主義の危機とは言わないだろう。
そもそも民主政治の理念は、属人的なシステムを廃するところにあるといえよう。民主主義の政治家は、誰かが倒れても別の誰かによって代替可能であるのが望ましい。もちろん政治家になるには一定の人格や能力が必要だ。しかし他方で、政治の安定を特定のカリスマ政治家に依存させるのも健全とはいえない。統治するものと統治されるものの同一性こそ民主主義の原理だ。一人一人の民衆が、それぞれの立場と方法で政治に参画していくことが民主主義の理想なのだ。
しかしそのためには、民主主義の根幹としての公開性が十分に保障されていなければならない。たとえば公文書の隠蔽、廃棄、改竄は許されないし、ジャーナリズムも権力に忖度することなく、公正な報道を行わなければならない。また、公開の討論ではなく、献金と利権分配によって政治が動いてはいけない。
つまり民主主義の危機は、直接的な暴力によって市民の自由な政治参加を阻むことだけではなく、情報公開をコントロールすることや実質的な決定を密室で行うことなどによって、事実上、市民を政治から排除することによっても生じるのだ。この意味では、この間「民主主義を守れ」というスローガンを唱えていた政治家の中にも、すでに民主主義を危機に晒していた者が多数含まれていたことは指摘しておかなければならない。
そして政治の透明性を確保することは、今回のような私怨に基づくテロには当てはまらないが、政治的な目的でのテロの可能性については減らすことができる。ある政治家が政治目的で命を狙われるのは、その政治家が死ねば政治の力関係が大きく変わるとみなされているからだ。しかし民主主義が成熟し、属人的な政治が行われなくなれば、政治テロの意味がなくなる。また、市民やジャーナリズムが権力に忖度せず言いたいことを自由に言えるようになれば、特定の気骨あるジャーナリストを殺害する意味がなくなるため、リスクは低減されるだろう。
一部の言論人やマスコミでは「今回の安倍元首相の殺害事件を招いたのは、安倍政権への批判の激しさだ」という主張や「2019年に当時の安倍首相の街頭演説にヤジを飛ばした男が道警に排除された事件で、今年3月の札幌地裁の判決で道警が敗訴したことが警備の萎縮を招いた」という主張など、政権批判を制限するような議論が生じている。しかし本当はむしろ、より多くの忖度なき批判と議論が必要なのだ。