アステイオン

アカデミック・ジャーナリズム

数と独立──棲み分ける批評Ⅲ

2021年12月15日(水)17時00分
東 浩紀(批評家・「ゲンロン」創設者)※アステイオン95より転載

さきほど記したように、ぼくはいま数千から数万の支持者で十分だと割り切って仕事をしている。かつてはもっと大きな数を相手にしていた。全国紙で論壇時評を担当したこともあるし、雑誌やテレビにも積極的に顔を出していた。その名残でいまでもツイッターには20万強のフォロワーが残っている。

けれどもあるときから、そのような大きな数が生み出す影響力よりも、それが強いる不自由のほうが気にかかるようになってしまった。いまはぼくは仕事の大半を、起業した会社の媒体でのみ発表している。大きな媒体への参加はできるだけ避けている。

それを内向きと批判する声もある。古い読者からはしばしば失望も寄せられる。とはいえ、ぼく自身はこの選択を消極的なものだとは捉えていない。なぜなら、言論人が数をもつということの意味が、この十数年ですっかり変わってしまったように思われるからである。

数はかつては公共性を意味していた。1000人に届く言葉よりも100万人に届く言葉のほうが公共的だと考えられていた。そのような前提が機能したのは、どの言葉をどれほどの数に届けるのか、出版や放送の側であるていどの選別が可能だったからである。ひとことでいえば、当時は100万人に届けるべき言葉だけを100万人に届けていた。少なくとも、原則はそうだった。だからこそ、出版や放送に携わる人間には特別の見識と倫理が求められていたのである。

けれども、インターネットの出現でその環境はまったく変わってしまった。いまでは言葉はどこでも選別されていない。だれでも世界中に言葉を発信できる。

その新たな環境においては、1000人に届く言葉はたんにその言葉が1000人にしか届かなかったことを意味するだけであり、100万人に届く言葉はたんにその言葉が100万人まで届いてしまったことを意味するだけである。結果の数は人々の欲望の反映にすぎないから、公共的であるがゆえに多数に届いた言葉もあるだろうが、そうでないものも同じくらいに多い。

じっさいにヘイトやレイシズムがSNSで強い影響力をもっていることは、大きな社会問題になっている。いまは数は公共性を意味していない。麻薬やポルノが売れていることが公共性を意味しないように。にもかかわらず、少なからぬ人々が数こそ公共性だと信じ続けている。その幻想が事態をより悪化させている。

それゆえ、いまは言論人は、真に公共的であるためには、数の幻想からいったん身を引き離すべきだと考える。ぼくが自社媒体にひきこもったのは、その意味では積極的な選択である。

むろん、少ない支持者を相手にしたからといって、それだけで公共性が保証されるわけではない。むしろたいていは堕落し腐敗するだけだろう。ぼくの試みの成否はこれからの仕事の質で判断していただくほかない。

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