Maria Tsvetkova Dan Fastenberg

[ニューヨーク 7日 ロイター] - ニューヨーク市消防局の消防士だった父親を2001年9月11日の米同時多発攻撃で失ったとき、スコット・ラーセンさんは4歳だった。父親が名前の由来だ。

当時35歳だった父親は、通常の勤務先だったクイーンズ区ウッドサイドの消防署から、マンハッタン南部に一時的に配属されたばかりだった。その日の朝、イスラム過激派組織アルカイダにハイジャックされた2機の旅客機がニューヨークの世界貿易センタービル(WTC)のツインタワーに突っ込んだ。市消防局員343人が死亡し、ラーセンさんの父親も犠牲者の1人となった。

この2機のほかに、ハイジャックされた3機目が国防総省に突入し、4機目がペンシルベニア州で墜落。約3000人が死亡し、何万人もの配偶者や親、子どもたちが後に残された。

ブッシュ大統領(当時)の第1期政権の初期に起きたこの事件は、米国の安全保障政策を根本から作り変え、その後数十年続き、90万人以上が死亡したイラクとアフガニスタンでの戦争の幕開けともなった。

同時に、個々の人生も変えた。犠牲者の子どもたちの中には親と同じ警察や消防の道を志した人もいれば、軍や医療、公共サービスの職業へと進んだ人もいる。そして生存者や救助隊員ら何百万人もの米国人が、今なおあの日の記憶と向き合っている。

以下は、そのうちの3人の物語だ。

<毎日よみがえる記憶>

ラーセンさんは、父親と同じ消防士になった。ニューヨーク市消防局に入り、父が勤務していたのと同じウッドサイドの消防署への配属を希望し、それを実現させた。

「自分の中ではずっとそうしたかった。ただずっとここに来たかったんだ」。29歳になったラーセンさんは、取材にこう話した。

同じ道を歩んだのは彼だけではない。国際消防士協会(IAFF)によると、9月11日に殉職したニューヨークの消防士の子ども58人が、同じように消防士になっている。

消防署には、ラーセンさんの父親を思い出させるものがあちこちにある。父親の名前は記念のプレートに刻まれ、消防車にも書かれている。給湯室や休憩室には父親の写真が飾られている。

「正直にいうと、父の記憶は毎日よみがえってくる」と彼は言う。「ここに来て父を見ない日は一日もない」

ラーセンさんは一家で3代目の消防士だ。9月11日の2日後に生まれた弟も採用試験に合格し、来年にニューヨーク市消防局に入ることを望んでいる。

「いつか自分に息子か娘ができたら、どちらでもいいけど、この伝統を受け継いでくれたらいいな」とラーセンさんは語った。

<自分自身の問題>

マイケル・クレイン医師(74)は、救助にあたった関係者らを支援し続けている。

死者数は甚大なものだったが、それで話が終わったわけではなかった。何万人もの警察官、消防士、公益事業の作業員、建設作業員が、ニューヨーク中心部のがれきに対応した。

「ザ・パイル(がれきの山)」と呼ばれたそれは、約5階建ての高さまで積み上がり、生存者の、そして後には遺体の捜索が、立ちこめる粉じんの下で何カ月も続いた。

ニューヨークの電力会社コン・エジソンの医療責任者だったクレイン氏の仕事は、救助・清掃作業員を守ることだった。一人ひとりに正しくフィットする防じんマスクを確実に着用させることも仕事の一つだった。

防じんマスクを作業員に配るのは簡単だった。だがいったん使い始めると、マスクはすぐに粉じんで目詰まりを起こした。多くの人が、防じんマスクを放り出してしまった。

救出作業の初期、グラウンド・ゼロのがれきの山で作業していた若い男性が、ひどい咳を訴えてクレイン氏の診療所に現れた。数日間休んで治療を受けるようクレイン氏は伝えたが、男性は拒んだ。家族が、がれきの下のどこかに埋もれているのだという。

「その瞬間、これは単なる国家的なことではなく、個人の問題なのだと気づいた」と、現在マウントサイナイ病院で世界貿易センター健康プログラムの医療責任者を務めるクレイン氏は言う。「あそこで大切な人を失った多くの人にとって、これは自分自身の問題だったんだ」

米疾病対策センター(CDC)が6月30日時点で集計したデータによると、当時救助・復旧活動に携わった救助隊員や、被災地域で暮らし、働き、学んでいた生存者のうち、政府が資金を拠出する世界貿易センター健康プログラムで治療などを受けている人は15万人以上に上る。

このデータによると、同プログラムの対象者のうち、世界貿易センター関連の疾病の認定を受けているのは約8万5000件。その約半数は有毒な粉じんに関連するもので、約30%はがんだった。同プログラムが追跡している人々のうち9000人以上が9月11日以降に死亡しているが、当局は彼らの死に9月11日が果たした役割を特定するのは難しいとしている。

攻撃から4半世紀が経った今も、クレイン氏は救助作業員たちに深く心を動かされている。

「こういう人たちにほれ込んでしまった」と彼は言う。「彼らは素晴らしい。とにかく打たれ強く、ユーモアがあって、ちょっとクレイジーでもある。しかも、あれだけのことを経験しながら、本当に精神的にタフで、自分たちのやったことを誇りに思っている」

<「直感」>

米同時多発攻撃の影響を受けた多くの人と同じように、マイケル・トゥーイさん(80)は答えの出ない問いを抱えて生きている。

航空会社の顧客サービス係だったトゥーイさんは、メーン州のポートランド国際空港で、ハイジャック犯2人の搭乗手続きを手伝った。それは、アメリカン航空11便が世界貿易センターの北タワーに突っ込んで終わる旅の出発点だった。

ハイジャック犯のモハメド・アタとアブドルアジズ・アルオマリは、フライトのわずか30分前に到着した。

トゥーイさんは2人の紙のチケットを調べ、直前に購入されていないか、あるいは現金で支払われていないかを確認した。それらは同時多発攻撃以前の基準でさえ警戒信号となるものだった。だがチケットは数週間前に購入され、クレジットカードで支払われており、ファーストクラスのものだった。

「年上で背の低い方の男から、そこにいるのを嫌がっているような雰囲気を感じ取っていた」とトゥーイさんは振り返る。「それで私はこう思ったんだ。まだ朝の5時半だ。朝の5時半に起きたい人なんていないだろう、と」

その後、同時多発攻撃が起き、アルカイダの陰謀を見逃した米情報機関の失態が広く検証されることになる。国土安全保障省が創設され、空港の安全手続きが刷新され、国全体に新たな安全保障関連法の網が張り巡らされた。

だが、その爽やかな秋の早朝、ポートランドの東の空が明るくなり始めたころ、トゥーイさんにはその後に起きる惨劇を知るすべはなかった。

「私の直感は間違っていなかった。だが、法律があった。人を(見た目などで)選別することを禁じる法律があったんだ」と、トゥーイさんは語った。

「私は自分の直感に従わなかった。そしてそれは、ひどい結果になった。でも、私が正しかったということじゃない。ただ、何かを変えられたかもしれない、というだけだ。変わったとは言わない。でも、変えられたかもしれない。そうでしょう」

Reuters Copyright (C) 2026 トムソンロイター・ジャパン(株) 記事の無断転用を禁じます。