<道頓堀、難波新地、法善寺横丁…ミナミ再生を語り継ぐ、繁華街の環境浄化と新陳代謝を続ける「まちづくり」の実践について>
歓楽街が復興する物語
この春、まちづくりのコンサルタントである山本英夫さんとともに、『ミナミ再生を語り継ぐ 繁華街の環境浄化とまちづくりの実践』(遊文舎)という著書を刊行した。
私は昭和35年(1960)、大阪の南区竹屋町(現:中央区島之内1丁目)で生まれた。母校である南中学校は、道頓堀や難波新地、千日前、心斎橋筋、アメリカ村、南船場など、「ミナミ」と総称される商業地区や歓楽街を校区とする。混沌とした繁華な巷こそわが故郷であり、人生で大切なことは盛り場で学んだと自負している。
小学生の頃、南海ホークスを応援するべく難波にあった大阪球場に繁く通ったこと、御堂筋や堺筋が一方通行となった初日の朝、父が運転する軽トラックの助手席で走り初めをしたことが強く印象に残る。
中学校への往復で朝夕に御堂筋を横断した。銀杏並木の四季折々の変化に、大都会に固有の季節感を感じた。友人の家が心斎橋や道頓堀などの繁華街の各所にあり、路地裏が遊び場だった。SF作家になりたいと思い、海外のSF雑誌のバックナンバーを求めて、自転車でミナミの古書店巡りをする日々が続いた。
アメリカ村、ヨーロッパ通り、鰻谷、南船場と、わが故郷に新たな若者向けの新たなエリアが注目されるようになる。大学生になってから、ディスコやカフェバーの流行をリアルタイムで体験した。阪神タイガースが優勝した夜には友人と朝まで混沌としたミナミの夜を堪能、次々と川に飛び込む輩を道頓堀橋から眺め、戎橋北詰で暴徒となった人たちが笑いながらタクシーを壊す現場に居合わせた。
いうまでもなく、現在もミナミは世界でも有数の盛り場であり、多くの外国人観光客が訪問する繁華街である。ただ2000年前後には環境の悪化が際立っていた。
路傍には違法駐輪の自転車があふれた。宗右衛門町には風俗店の案内所が軒を並べるようになり、景観の悪化が顕著になった。ひったくりをはじめとする街頭犯罪や、ぼったくりの事案も頻繁に取り沙汰された。「怖いまち」「汚いまち」といった風評がひろまり、戎橋筋など商店街の通行者数が4割ほど減少した。伝統ある繁華街は岐路に立たされていた。
この危機を乗り越えるべく、地元の経営者や市民が立ち上がった。行政と連携しながら健全で安全な盛り場とするべく改善の試みを重ねてきたのだ。私も専門家として、御堂筋の空間再編や難波の駅前広場の実現に尽力、道頓堀を始めとする大阪市内の水辺の活性化にも深く関わってきた。また地元の企業や商店街とともに、ミナミの将来像を描く試みにも深く参加し、提言を重ねてきた。
今回、刊行した小著は、多くの当事者への取材をもとに、世界的な盛り場が最悪の状況から再生した経過を後世に伝えるべくとりまとめたものだ。多くの人は、課題ばかりが際立った2000年頃のミナミの街を知らず、現状の歓楽街を楽しんでいる。
それはそれで良いのだが、今後、まちづくりに関わる人たちや商店街の関係者に対して、私たちの経験を書き残しておきたいと強く思い、また日本各地の歓楽街で同様の苦心をされている人たちの手にも届けることができればと願っている。
復興する横丁文化
本書で取り扱う事案は、防犯、用途規制、放置自転車対策、水辺再生、道路空間の再編など多岐にわたる。そのなかでも、私にとって思い入れが強い事案が、私と共著者である山本氏がともに取り組んだ法善寺横丁の復興支援である。
法善寺横丁は、境内地の露店街が常設化した道幅の狭い飲食店街である。料理人が参拝する水掛不動があり、石畳の風情と頭上に張り出した看板類が独特の情緒を醸し出していることから、戦前から大阪を代表する名所となり、文学作品や映画の舞台となった。