※本記事はマイケル・ジャクソンの急死を受けた追悼特集(本誌2009年7月22日号)からの再掲載です。
50歳からの復活に、マイケル・ジャクソンは懸けていた。かつて時代のアイドルだったアーティストは、スキャンダルにまみれた10年余の沈黙を経て「THIS IS IT!(これが最後だ)」と題するコンサートツアーを仕掛け、2009年6月25日に最悪かつ絶妙な死を迎える直前までリハーサルに励んでいた。
ツアーはロンドンのO2アリーナでこの年の7月に幕を開け、翌年春までかけて50回行われる予定だった。もちろん、チケットは全て売り切れていた。
このツアーを、マイケルは「最後のカーテンコール」と呼んでいた。つまり、これが最後のライブということ。でも、それだけではなかった。最後の最後に、マイケルは自分の真実をさらけ出し、みんなに(とりわけ祖国アメリカのみんなに)昔のことを思い出してほしかったのだ。何十年か前に、みんながマイケル・ジャクソンを好きになった本当の訳を。
思えば90年代の初めから、マイケルとアメリカの仲はこじれていた。地球上のほとんどの国では依然として「ポップの王様」だったが、祖国でのマイケルは裸の王様だった。どんどん奇怪になっていくその容姿と行動、そして繰り返される児童虐待疑惑。芸能メディアの格好の餌食だ。
私たちが若かった頃は最高のショーマンで、みんながまねたがったスーパースターのマイケル。そのマイケルが、気が付けばマスクで顔を隠さなければ外出できず、世間に背を向けて暮らす「変人」になっていた。70年代と80年代に私たちを魅了した素晴らしい才能の持ち主と、最近はゴシップ欄をにぎわすだけの痛々しい中年男。2つのイメージはどうにも重ねづらい。
だが、ライブであれ往年の音楽番組『エド・サリバン・ショー』のDVDであれ、衛星テレビやインターネットの有料コンテンツであれ、一度でもマイケルのステージを見たことがある人なら分かるはずだ。彼がステージに立った瞬間に、全てのスキャンダルは吹き飛ぶ。
ジャクソン・ファイブの革命性
マイケルは、私たちが幸運にも目にすることのできたスターたちの中でも最高のエンターテイナーだった。流れるような動き、客席を一つにするカリスマ性、そしてこの上なく繊細なあの声……。その全てが、観客をとりこにした。
マイケルが再び人々の心をつかむには、もう一度ステージに立つしかなかった。しかし、行く手には高い壁が立ちはだかっていた。それは、ある程度までマイケル自身が築いてきた壁と言っていい。
例えば、あの容貌(鼻はどんどん細く、肌はどんどん白くなっていた)。あの不可解な行動(高圧酸素室で寝ているとか、病気で奇怪な風貌となったエレファントマンの遺骨を買おうとしたという噂など)。少年に対する性的虐待の容疑で11年間に2度告訴されたこと。その過程では薬物に慰めを求めたかもしれない。地に落ちた偶像がアメリカの大衆の心を再びつかむには、奇跡を起こすしかなかった。
マイケル自身、神々のくれた幸運が底を突きかけていると感じていたのだろう。だから最後のツアーは(アメリカではなく)イギリスで行うことにした。丸1年、中東のバーレーンに住んだことや、亡くなる前の数カ月間、ロサンゼルスの自宅にほとんど引き籠もって過ごしたことも、それで説明がつく。
どうすれば、もう一度アメリカ人に受け入れてもらえるのか。マイケルは悩んだ。彼ほどのアーティストになると、何事にも過剰なくらい敏感で、俗人には想像もつかないほど広く深く、周囲の人の反応を感じ取れるものだ。もちろん、その感覚の鋭さは歌手マイケルの強みとなった。彼がわずか10歳で屈折した思いを表現できたのも、そのおかげだろう。
だが、ステージを降りてからはどうだったか。ちょっとした非難や軽視、批判も耐え難かったのではないか。そうだとすれば、晩年のマイケルが鎮痛剤や麻酔薬に頼っていた訳も理解できる。
しかし、かつてのアメリカはマイケルを信じていた。マイケルは無敵だと信じていた。マイケルは、アメリカのカルチャーそのものだったから。70年代には白人の子も黒人の子もジャクソン・ファイブの「ABC」を口ずさみ、彼らの絵柄が付いた弁当箱を自慢げに持ち歩いた。まだ人種差別を引きずっていたあの時代に、それは画期的なことだった。
ジャクソン・ファイブ、とりわけ中央で元気いっぱいに歌うマイケルは、黒人音楽とか白人音楽という概念を消し去った。人々は肌の色に関係なく「ダンシング・マシーン」のビートに酔った。自分もハーレムのアポロシアターの舞台に立ったつもりで、あるいはカントリー音楽のラジオ番組『グランド・オール・オプリー』に出演した気分になって一緒に「アイル・ビー・ゼア」を歌った。
インディアナ州の小さな工場町が生んだ兄弟バンドの歌は人種間の対立を忘れさせた。誰もが彼らの曲を子供時代の思い出と共に心に刻んだ。アメリカで黒人の子と白人の子が大衆文化を共有して育ったのは、おそらく初めてのことだった。