<「知識人の国」日本で出会った、儒学者との驚きの対話集について>
「鎖国の時代」として知られる江戸時代の日本に、一人のイタリア人宣教師が現れた──この事実は、私たちが抱きがちな「閉ざされた日本」というイメージを静かに揺さぶる。
学校教育では、江戸時代は外国との交流が限られた時代として説明されることが多い。確かに対外関係は厳しく制限されていたが、それでもなお、日本が完全に世界から切り離されていたわけではなかった。
18世紀初頭、その「鎖国」の只中に、ヨーロッパから一人の宣教師がたどり着いている。その人物がジョヴァンニ・バッティスタ・シドティ(Giovanni Battista Sidoti)である。
彼は1708年、屋久島に漂着し、捕えられた後に長崎へ送られ、さらに江戸へと移送された。キリスト教が厳しく禁じられていた時代であり、宣教師の入国は重大な犯罪と見なされていた。それにもかかわらず、彼はヨーロッパから日本へ向かう危険な航海を選んだのである。
シドティはイタリア半島のシチリア島出身のカトリック司祭で、ローマで教育を受けた宣教師だった。当時のヨーロッパでは、日本はすでに宣教が極めて困難な国と考えられていた。
17世紀の禁教政策によって多くの宣教師が追放され、日本は事実上、カトリック宣教の地図から消えたかのように見えていたからである。
それでも彼は日本へ行くことを望んだ。そこには、16世紀以来ヨーロッパに広く伝えられていた「知識人の国、日本」というイメージがあった。高度な文化を持つ国であれば、いつか再びキリスト教を理解する日が来るかもしれない―そのような希望が宣教師たちの間には残っていたのである。
江戸で彼を尋問したのが、新井白石であった。白石は徳川幕府に仕える儒学者であり、同時に政治家でもあった人物である。彼は単に禁教政策を実行する役人としてシドティと向き合ったわけではない。むしろ、世界に関する知識を得ようとする強い知的関心を持っていた。
白石は中国古典だけでなく、海外の事情にも関心を持ち、当時限られた形で入ってきていた西洋の知識にも注意を払っていたとされる。シドティとの対話は、そのような知的関心を満たす貴重な機会でもあったのである。
白石はシドティに対し、ヨーロッパの地理、歴史、政治制度、宗教、さらには世界の構造に至るまで、多くの質問を投げかけた。その対話の内容をもとに書かれた書物が『西洋紀聞』である。
この書物には、当時の日本人にとって未知であった西洋世界の情報が数多く記されている。ヨーロッパの国々の位置関係、ローマ教皇の存在、キリスト教の教義、さらに世界史や各国の政治体制など、内容はきわめて幅広い。
今日の私たちにとっては基本的な知識に見えることでも、当時の日本では新しい情報であった。