<ギリシャの奇才ランティモス監督の『聖なる鹿殺し』は後味がすっきりしないホラー>

若手俳優がこれほど懸け離れたキャラクターを演じ分けられるとは驚きだ。『ダンケルク』で兵士たちを救うべく民間船に乗り込んだ英雄ジョージを演じたバリー・コーガン。その彼が、ヨルゴス・ランティモス監督の『聖なる鹿殺し』では主人公の外科医一家を追い詰める謎の青年マーティンを演じる。

ジョージはいかにも世間知らずの純朴な若者だった。マーティンも強烈な第一印象を与えるが、その正体が見えてくるのは終盤に近づいてからだ。

心臓外科医のスティーブン(コリン・ファレル)は父親のいないマーティンを気に掛け、何かと面倒を見ている。何の特徴もないアメリカの都市(ロケ地はシンシナティ)の川辺の道を一緒に歩き、父親かおじのように人生について語ったり、愛用の腕時計をプレゼントしたりする。だが2人の会話はどこかよそよそしく、2人とも心ここにあらずといった感じだ。

今回もランティモスは、エフティミス・フィリップと組んで脚本も手掛けた。2人の脚本に見られる抽象的な概念や比喩を盛り込む手法は、次第にエスカレートしているようだ。09年の『籠の中の乙女』は、子供を家に閉じ込め、社会から隔絶して育てる裕福な夫婦の話だった。だが最近は、「わが子」である映画そのものまで現実世界から隔絶させている。

前作の『ロブスター』は異性の伴侶が見つからなければ、手術で動物の体に変えられるという不条理な近未来(おそらく)が舞台。設定がとっぴなのに、登場人物が大真面目に演じているため、おかしさが倍増した。一方、神話の領域まで踏み込んだ本作は、現実から離れ過ぎて映画の息の根が止まりそうだ。

ギリシャ人のランティモスが初めてアメリカで撮ったこのホラーは、ギリシャ神話を基にした彼の初作品。そこにひねりがある。タイトルが示すように、この映画は女神アルテミスの聖なる鹿を殺したアガメムノンが、女神の怒りを鎮めるために娘のイピゲネイアをいけにえにするという神話を下敷きにしている。

映画での怒れる神はマーティンだ。父親の死に絡む彼の怒りは、スティーブンがいけにえを差し出さなければ収まらない。

手の込んだゲームのよう

何やら深遠なシーンの連続は亡き巨匠スタンリー・キューブリックを連想させる。彼の遺作『アイズ・ワイド・シャット』でトム・クルーズの妻役を演じたニコール・キッドマンがスティーブンの妻を演じるのは、ランティモスの個人的なジョークのようだ。

しかしスティーブンの娘と息子がマーティンの「呪い」に苦しめられる頃から、この映画はキューブリックへのオマージュから、ミヒャエル・ハネケ監督風の理不尽な暴力にラース・フォン・トリアー監督風のエロ描写を加えた怪作へと変質する。

映画全体が手の込んだゲームのよう