<舞台は75歳以上で自ら死を選択できる制度が施行された近未来の日本。「自ら選択」と言うけれど──>

小学生の頃は中学生が大人に見えていた。体も大きいし声も低い。きっと内面も違うはずだ。でも中学生になって、あまり成長していない自分に気付く。おかしいな。ならば高校生だろうか。

以降はその繰り返し。高校生になれば大学生が、大学生の頃は社会人が、社会人1年生の時代には30代が、成熟した大人に見えていた。

もうオチは明らかだけど、還暦を過ぎた今、いくら齢(よわい)を重ねても内面はほとんど変わらないことを知ってしまった。場数は踏んだから少しはずるくなったかもしれないけれど、逆に言えばそれだけだ。中身は子供時代とほとんど変わっていない。

いやいや自分はしっかりと成熟していると思っている人には申し訳ないけれど、多くの人はそうなのだろう。三つ子の魂百まで。この慣用句を今だからこそ実感している。人は自分がいつかは成熟すると幻想しながら齢を重ねるけれど、それは文字どおり幻想なのだ。

ただし内面はともかく、年齢を重ねたことは事実だ。同窓会などに参加してかつてのクラスメイトたちを見ながら、あいつ老けたなあとか彼女も年を取ったなあなどと(言葉にはしないが)思う。ならば自分も年を取ったのだ。

『PLAN 75』の舞台は、75歳以上で自ら死を選択できる制度「プラン75」が施行された近未来の日本。夫と死別して1人で暮らす78歳の角谷ミチはホテルの客室清掃の仕事をしていたが、高齢を理由に解雇され、「プラン75」の申請を検討し始める。

自ら選択と書いたが、70歳を過ぎて1人で生きてゆくのは難しい。この国はずっと、社会保障や福祉について真剣に考えてこなかった。収入が乏しくて一緒に暮らす家族がいない老人は、多くの選択肢を持てない社会なのだ。

主軸となるミチの日常に、若い世代の2人の日常が交錯する。「プラン75」申請窓口で働くヒロムと、フィリピンから単身出稼ぎに来た介護職のマリアだ。

率直に書けば、3人の軸が効果的に機能しているとは言い難い。もしもアメリカン・ニューシネマならば、最後にミチは点滴チューブをむしり取ってヒロムやマリアの手を借りながら、他の老人たちと共に施設から脱走するはずだ(でも最後にミチは死ぬ)。

もちろんそんな映画をいま見せられたら、今どきアメリカン・ニューシネマかよと僕は言うだろう。これはないものねだり。でもねだりたい。だって足りないのだ。

ディテールに監督のこだわり