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互いの仕事を尊敬し合った、高階秀爾氏と山崎正和氏。2024年10月に逝去した高階秀爾氏が寄せた、山崎正和氏(2020年8月逝去)への追悼文をご遺族の許可のもとに転載。「人間とは何かを問い続けた生涯」『別冊アステイオン それぞれの山崎正和』より。
山崎正和さんの訃報に接した時、忽忽の間に執筆した追悼文のなかで私は、山崎さんは日本が生んだ「知の巨人」であり、その仕事に一貫しているのは「"人間とは何か"ということへの飽くなき関心だった」と述べた。
事実山崎さんの活動は、創作、演劇、文芸批評、哲学、美学、社会学、文明論などきわめて広い分野にわたっているが、そのいずれにおいても、人間存在に対する透徹した思索がうかがわれる。
山崎さんは一九六三年、『世阿彌』によって岸田国士戯曲賞を受賞した。これは文字通り「戯曲」であって、実際に上演もされたが、その人物造形にも人間を見据える鋭い眼がうかがわれる。それから七年後『平家物語』に素材を得た『野望と夏草』が発表された。
たまたまこの年は、全国の大学紛争の余燼がまだ消えやらぬ時期で、公演に駆けつけた大学の友人たちは皆一様に疲労と無力感にさいなまれたような顔をしていたが、幕間で雑談していると、友人たちは舞台の人物の役柄が学園紛争中のあれこれの同僚たちのそれと酷似していて、同じようなパターンを示すと言って大いに楽しんでいた。
危機的な状況に出会うと、人間はそれに対応するため、さまざまな役柄の配置をつくり出す。学園紛争は大学にとってまさしく危機であり、それに対応するため、教官にも、それぞれ役柄が与えられる。
「その役柄のひとつをふりあてられたが最後、人間は避けがたく類似の行動の「型」を演じるものだということを、彼らはあらためて確認して救われた気分を味わっているようであった」と山崎さんは述べている。
それは、別の言い方をすれば「歴史のアナロジー」というべきものである。紛争処理に困憊して気力を失った大学人たちは、舞台で展開される昔の人物たちの行動と心情に類似の先例を見出して、心の安らぎを覚えたのである。
その後間もなく、山崎さんは、この時のエピソードをまくらに振って、『太平記』を素材とした卓抜な日本文化論「私生活者のための歴史──太平記の救済」を発表した。
『太平記』は、軍記文学と言いながら、華々しい戦功はほとんど語られず、もっぱら敗者の運命を述べたものである。なかでも「落花の雪に蹈(ふ)み迷ふ片野の春の桜がり、紅葉の錦を衣(き)て帰る、嵐の山の秋の暮......」という美文に飾られた日野俊基東下りの道行文は名高い。
だがこの道行は物見遊山の旅ではない。俊基は今斬罪のため鎌倉に送られるところである。人は逃れ得ぬ死を目前にした時は、激しく泣き叫ぶか、茫然自失するか、いずれにしても道中風物を楽しむ余裕などない。
しかし俊基は、天龍川のほとりでは『平家物語』に語られている平重衡が女と交わした昔の歌を思い出し、小夜の中山では西行法師の故事を偲ぶなど、しかるべき場所でしかるべき嘆きを表明しながら、従容として死出の旅を続ける。
このように『平家物語』を通じて学んだ歴史の先例に従う振舞いを重ねることが、「動物的な狂乱や放心から俊基を救い出し、彼をぎりぎりのところで人間的な表現者として支えた」と山崎さんは述べている。