アステイオン

アカデミック・ジャーナリズム

高坂正堯の精神から何を学ぶか──アカデミズムとジャーナリズムの架橋

2021年12月27日(月)16時10分
山脇岳志(スマートニュース メディア研究所 研究主幹)

高坂が異色なのは、50代の脂の乗りきった時期に、テレビ朝日系列の「サンデープロジェクト」にレギュラーコメンテーターとして出演したことである。阪神ファンであることを公言し、田原総一朗の切り込みに応え、島田紳助と軽妙なやりとりを繰り広げた。この高坂の行動は、お茶の間に親しまれこそすれ、アカデミアでの評価という点では、決してプラスに働かなかったはずである。

筆者はメディアに勤めつつ、合計10年ほど非常勤の特任教授や講師として、大学で教えてきた。ジャーナリズムとアカデミアの分断については、常日頃から感じるものがある。

ジャーナリストの世界で「あいつは学者みたいだな」といわれるのは、その記者が現場を十分に歩かないとか、高みにたってえらそうな評論をするとか、いずれにしてもネガティブな意味で使われることが多い。

一方、大学人の間で、「彼(や彼女)の論考は、ジャーナリスティックですね」という評は、学術的な価値が乏しく、表層的というような意味で使われることが多い印象がある。やはりネガティブな含意があると感じる。

30人の読者か、300万人の読者か

不幸ともいえるこの関係はなぜ生じるのだろうか。同じく95号に、野田宣雄の回想録を寄稿した京大教育学部の佐藤卓己教授に尋ねてみた。メディア史研究で知られる佐藤は、アカデミズムでの評価も高いが、テレビ含めメディアへの露出も多く、高坂と通じるところがある。

佐藤によれば、お互いがすれ違うのは、「対象とする読者の数が全く違うからですよ」と明快であった。

「学者は、基本的にその道の専門家30人ぐらいにどう評価されるかを意識して、論文を書いている。一方、マスメディアは、大手新聞なら、数百万部。仮に、読者の数が300万人とすれば、10万倍ですよね。ただ、新聞の論壇時評を担当しても、評価は低くなる感じはしない。学者同士の間で見下されるのは、その学者がテレビに出る場合です」と話す。

佐藤の著作に『輿論と世論』(新潮選書)がある。「公的な意見=Public Opinion」が「輿論(よろん)」であり、「世間の雰囲気=popular sentiments」が「世論(せろん)」。戦前はその2つに明確な区別があった。しかし、戦後、当用漢字によって「輿論」という言葉が消え、「公的な意見」と「世間の雰囲気」の区別があいまいになってしまった。「世間の空気に対して、たった一人でも公的な意見を叫ぶ勇気こそが大切なのである」と、佐藤は記している。

佐藤自身は、30人と300万人のミディウム(中間)、「3000人から30000人」の読者を意識して、本を書き、メディアに寄稿しているのだという。それが「世論」に影響を与えうる「輿論」ということなのだろう。

この読者数という観点で、批評家の東浩紀による95号の巻頭の論考「数と独立」も興味深い。かつてテレビや全国紙の論壇時評でも活躍した東は、あるときから「大きな数が生み出す影響力よりも、それが強いる不自由のほうが気にかかるようになってしまった」。その結果、仕事の大半を、自ら起業した会社の媒体のみで発表し、大きな媒体への参加はできるだけ避けているという。

かつて、数は「公共性」を意味したが、インターネットの出現によって、それが当てはまらなくなった、と東は見る。それゆえ「言論人は、真に公共的であるためには、数の幻想からいったん身を引き離すべきだと考える」。

東は、今「学者仲間の評判を気にする必要もなければ、メディアに飽きられることに怯える必要もなく、かといって匿名のネットユーザーの機嫌を取る必要もない、かなり自由な立場」を手に入れた。東が、「数」を諦めた代わりに得たのは「独立と自由」であった。

関西のテレビ局にレギュラー出演する佐藤に、なぜ高坂は学者としての評価が低くなるリスクを冒してテレビに出たのか、と問うてみた。

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