アステイオン

アカデミック・ジャーナリズム

数と独立──棲み分ける批評Ⅲ

2021年12月15日(水)17時00分
東 浩紀(批評家・「ゲンロン」創設者)※アステイオン95より転載

metamorworks-iStock


<インターネットの出現によって、数は「公共性」を意味しなくなってしまった。批評家の東浩紀氏が「数」を諦めて得た、独立と自由とは? 論壇誌『アステイオン』95号は「アカデミック・ジャーナリズム」特集。同特集の論考「数と独立――棲み分ける批評Ⅲ」を全文転載する>

※転載にあたっては算用数字への変更、および改行を増やしている


アカデミズムとジャーナリズムの関係について書いてほしいという依頼を受けた。けれどもぼくはアカデミシャンでもジャーナリストでもない。だから両者の関係について責任ある立場で書くことはできない。書くことができるのは、ぼく自身の経験についてだけである。それでよいかと返信したら、よいとの答えをもらった。それゆえ、個人の経験を記そうと思う。

ぼくは博士号をもっている。教職に就いていたこともある。けれどもアカデミシャンの自覚はない。ぼくが就いた教職はすべて任期付きあるいは非常勤で、学会運営や大学運営に参加することはなかった。アカデミシャンという言葉はいまでは、教養や知的訓練の質というよりも、むしろそのような組織運営への関与によって定義されている。その意味でぼくはアカデミシャンの名に値しない。

他方でジャーナリストでもない。ぼくは一般読者に向けた本を書いている。テレビや新聞に出ていたこともある。SNSでは毎日のように時事問題に触れているし、論壇誌にも年に数度顔を出している。けれどもぼくの関心は基本的に世間離れしていて、いま目のまえで進行している政局なり事件なりを取材して原稿にまとめるという仕事はやったことがない。だからジャーナリストの名にも値しない。

アカデミズムとジャーナリズムは、たしかにあるていど対立している。かくいうぼく自身、20年ほどまえにその差異を主題にして原稿を書いたことがある(1)。当時のぼくは、アカデミズムとジャーナリズムの対立を大学と商業出版のそれに重ねて理解していた。そして本当の「批評」は、その対立を逃れる場所にしか生まれないはずだと論じていた。

ジャーナリズムを商業と同一視する整理は乱暴だし、いま読み返すとそもそも視野が狭い。けれども当時の問題意識そのものは、「政治的な正しさ」に閉じこもったリベラル系大学人、扇情的な発言を繰り返す保守系インフルエンサーの両極に分解した現在の論壇においても、変わらず通用するように思われる。

アカデミズムとジャーナリズム、つまり学問的な正確さと一般読者を見据えたわかりやすさをうまく組み合わせることでしか、社会的に意義のある言説を繰り出すことはできない。それはこの1年半、コロナ禍下で多くのひとが実感していることでもあろう。

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