アステイオン

アカデミック・ジャーナリズム

数と独立──棲み分ける批評Ⅲ

2021年12月15日(水)17時00分
東 浩紀(批評家・「ゲンロン」創設者)※アステイオン95より転載

アカデミズムとジャーナリズムの話に戻ろう。さきほどもちらりと記したように、ぼくは現在の状況は、アカデミシャンの言説が「政治的な正しさ」の表明でしかなくなり、ジャーナリズムがインフルエンサーの無教養に呑み込まれつつあるものだと感じている。

大学人は大学人にしか語りかけていないし、一般市民、とくに若いひとはPV稼ぎに特化した娯楽動画でしか政治や歴史を学んでいない。ひらたくいえば、それがぼくの目に映る論壇の光景だ。

そしてぼくの考えでは、この状況はアカデミズムとジャーナリズムがともに数の幻想に対抗できていないことに起因している。

ジャーナリズムはともかく、アカデミズムは数の幻想の外にあると思われる読者もいるかもしれない。けれどもその認識は誤っている。いまは大学人もSNSの動向に敏感になっている。背景には大学改革やコンプライアンス意識の変化がある。

アカデミズムはもはや象牙の塔ではない。なにかあればすぐ大学事務にクレームが飛んでくる。それはときに解雇にもつながる。それゆえ、政治や社会問題について語る大学人は、生活を守るため、同僚からの攻撃やネットでの「炎上」をつねに警戒しなければならない状況に陥っている。

彼らの発言が教科書的な「政治的な正しさ」に閉じこもりがちな背景には、そのような環境の変化がある。現在のアカデミズムは、たえず匿名のネットユーザーに監視されているのである。

いまは大学人も活動家も出版人もテレビ人も、等しくSNSの強い影響下にある。それゆえ、正義のために世の中を動かすにしろ、金儲けのために商品を売るにしろ、結局は炎上を適度に避けてバズることが最適解になり、行動原理があまり変わらなくなってしまっている。この点において、いまやアカデミズムとジャーナリズムの対立は本質的なものではない。

また、ここでは詳述は避けるが、同じようにリベラルと保守の対立も本質でなくなっている(3)。反政権の左翼だろうが政権支持のネトウヨだろうが、マイノリティの活動家だろうが差別主義者だろうが、高潔な弁護士だろうが卑劣なYouTuberだろうが、みな同じようにSNS上でアテンションをとりあうことになるのがいまの言論界であり、それゆえすべてが「どっちもどっち」に見えるようになってしまっているのだ。

それはおそろしく不毛な環境である。なぜならば、だれもひとのいうことをまじめに聞いていないし、またそのことをすべてのひとが知っているからである。論壇はもはやRTや「いいね」を集めるゲームの舞台でしかない。

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