アステイオン

サントリー学芸賞

『サントリー学芸賞選評集』受賞者特別寄稿vol.6 「見つける」から「育てる」へ

2020年04月28日(火)
猪木武徳(大阪大学名誉教授)

SUNTORY FOUNDATION

サントリー学芸賞を頂いたのは、30年以上も前、家族とボストン滞在中のことであった。財団からの授賞を知らせる国際電話で、贈呈式用にフォーマル(正面・脱帽)とカジュアル双方の写真を送ってほしいと依頼された。早速、隣人が薦めてくれたボストン郊外の写真屋さんに飛び込んだ。カメラマンのオジイサンを不愛想に感じたのは、おそらくこちらが少し舞い上がっていたためであろう。写真は、写し手と被写体の相互の気持ちがないまぜになって表れる。出来上がりは修正を施されたのだろうか、日焼けしたような人相の悪い写りであった。東京の贈呈式にはその写真で出席させてもらったことになる。贈呈式のために「一時帰国」というようなことは考えられない時代であった。

1987年秋、賞が創設されて10年も経っていなかったが、すでにサントリー学芸賞の信用は確立していた。そんな立派な賞であったから、うれしかったことは言うまでもないが、その受賞作がいまも版を重ね、電子版でも流通していることを正直うれしく思う。

その後しばらく経って授賞作を選考する側の仕事に携わるようになった。書く人は、自分が書いたことに最終的な責任を負えばよい。しかし選考の仕事の責任は、ある意味もっと重い。書き手のキャリアに影響を与えるような判断をしなければならないからだ。実際、賞は書き手のその後の研究や執筆活動を少なからず左右する。中・長期的には、評価する者が結局評価されるということなのだ。

選考者の判断が単なる評判や流行に左右されてしまう可能性がある。したがって選考委員の間で意見の対立も起こる。しかしその対立は、率直なやり取りの結果収束する場合がほとんどだ。概して深く読み込んだ意見が説得力を持つというのは健全なことだ。

選考者になって痛感するのは、社会科学において専門化と科学論文のような様式化が進み、知的活動が細切れになりがちで、書き手が「全体」を意識した思考に無関心になり、一種の「知性の瑣末化(intellectual fragmentation)」が進んでしまったことだ。若い研究者の多くは、自然科学のように分野ごとの専門誌への投稿に熱心だ。経済学はもちろん、政治学、さらには歴史の分野でも、研究がモデル分析や史料と実証だけの勝負になって来たようだ。資料を用いた実証研究が大切なことは否定すべくもないが、資料で実証できないことに関しては「何も言わないことが安全だ」、という風土は研究者の想像力を奪いかねない。

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