hoshioyako.jpg
高台に新築した自宅前に立つ星眞一郎(左)と息子の光 PHOTOGRAPH BY KOSUKE OKAHARA FOR NEWSWEEK JAPAN

1時間半以上向き合うなかで星が語ってくれたことの多くは、次の津波から逃げ遅れるのをいかにして防ぐかという、体験者にしか語れない具体的な話だった。

悲しい、つらい、寂しい。でもそれ以上に、悔しい。言葉にせずとも、星はそう語っていた。もしあのとき、妻が逃げることができていたら。

やり場のない思いは、これまでに被災地を取材していて何度も聞いた。あの日、金曜日の午後2時46分は、家族がみんなばらばらの時間帯だった。あれがもし、早朝や夜だったら、学校に子供を探しに行ったりしなかった。土曜だったら、日曜だったら、みんな一緒にいたかもしれない。

あの日から悲しむ余裕は星にはなかった。親族14人を失った。星と息子自身も被災して、自分が生きることで精いっぱいだった。

「人間って案外、強いんですよ」と星は言う。「亡くなってる方もいるけど、生きてる方もいる。自分も生きてかなきゃならない。仕事も再開しなければならない。全てを同時進行で進めていったら、10年がたちました」

星の家を辞して気仙沼市内に向かうと、津波で壊滅的な被害を受けた内湾地区に、防潮堤と一体化した複合施設が誕生していた。気仙沼市は防潮堤の計画数が被災地の中で圧倒的に多い。だが、市民の間で建設の賛否について議論は紛糾した。

「コンクリートの壁に囲まれれば刑務所みたいだ」と反対の声が上がるなか、全地区で合意が成立するのに7年かかった。内湾地区に新設された「海が見える高さの防潮堤」は、「復興まちづくりコンペ」によって復興計画を募集した結果、ようやくたどり着いた防災策でもある。

内湾地区を一望する高台にある気仙沼プラザホテルの支配人・堺丈明(45)は記憶を風化させないため、そして「逃げ遅れ」を防ぐため、観光客などに対して記憶の伝承活動を行っている。堺が伝えるのは、未来に向けた具体的な教訓だ。

「犠牲者が多かった原因は、1つには、油断。経験したことがないから、大丈夫だろうと思ってしまう。2つ目は、家族が家族を心配しての行動。あの日、津波が来ると分かっていても、じーちゃんばーちゃんを迎えに行く、子供を迎えに行くって、みんなが車で移動し始めた。次は、津波を記録に収めたい、誰かに伝えたい、という心理からの撮影行動。本来はそんなことしている場合じゃない」

堺は全国から修学旅行で訪れる中学生や高校生に対して、津波が来たらSNS禁止、家族を迎えに行かない、とにかく高台に逃げる、と具体的な話をしている。若い世代のほうが人生の先が長い分、大地震や大津波に遭遇する確率が高い。

一方で体験者は時を追うごとにいなくなり、記憶は風化していく。そして、津波は日本のどこかに必ずまた来る。

bochotei.jpg
唐桑地区荒谷前の高さ11.3メートルの防潮堤。もともとは子供が泳いだり、ウニが獲れたりする海岸だった PHOTOGRAPH BY KOSUKE OKAHARA FOR NEWSWEEK JAPAN

「海と生きる」――明治三陸、昭和三陸、チリ地震と3度の大津波を経験し、そのたびに再起を果たしてきた気仙沼市が、3月11日を経験してなお、その半年後に復興の「テーマ」として市民公募で選んだ言葉だ。

各地に新設された海と人間を隔てるコンクリートの防潮堤は「備える」ための物理的な答えであり、災害を前にした人間のせめてもの抵抗でもある。ただ、今の気仙沼の町と人のありようは、自然に打ちのめされつつも耐え、再生しようとする人間の生命力を物語ってもいる。

【関連記事】